小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティ 現代に読む源氏物語』(第033回)をアップしましたぁ。『源氏物語』第四十五帖『橋姫(はしひめ)』を取り上げておられます。言うまでもなく『源氏物語』最後の『宇治十帖』最初の巻です。
桐壺院の八の宮(第八皇子)は中央政界から忘れられ、宇治で大君、中君の二人の娘と暮らしておられます。小原さんは「ここまでのエピソードから、何かを思い出しませんか。・・・そう、帝位の転覆、弘徽殿女御、都落ちの隠遁生活、といったキーワードは、源氏物語本篇の最大のクライマックス、須磨・明石の巻をフラッシュバックさせる。・・・宇治十帖の設定や構造は、本篇の最大のクライマックスである須磨・明石を深いレベルで踏襲し、そのバリエーションを示すものです。そのことは逆に、著者が本篇の須磨・明石を中心的な巻としてどれほど重要視していたか、ということの証しでもあります」と書いておられます。
小原さんは「ならば議論すべきは、そのバリエーションの意味に集約されることになります」と書いた上で、「ここでは姫が二人。それはもちろん、やがてやってくる貴公子が二人であるからでもありましょう。・・・姫もまた二人いることは、単なる一対一対応での数合わせという以上の意味がある。・・・男と女が二人ずついると、カップルが2つではなく4つできる可能性がある。・・・源氏と明石の入道の双方の立場を一身に負わされた八の宮ですが、その性格や存在感は2倍どころか4分の1程度の弱いものです。それがまた複数の貴公子と姫たちによる、拡散する物語の発端となるのに相応しいのです」と読解しておられます。紫式部が作品細部で表現している意味(思想)だけでなく、紫式部が作品全体を統御するフレームとして設定した構造から『源氏物語』を読解する小原さんの方法は非常に優れていると思います。
小原さんはまた、「地形にテーマを象徴させたり、また自然や風景などの描写に心象を代弁させたりといった手法は、近代から現代に至る日本文学にとっても極めて重要なポイントであると考えます。・・・これはきわめて近代的な、現代文学でよく見られる手法です。・・・この「日本近代文学」的な手法はなにも近代的な精神をルーツとするわけではない、という証明ではないでしょうか。その起源はもっと古く、民話や物語から「小説」が分化した瞬間を捉えなくてはならない」とも批評しておられます
小原さんの『文学とセクシュアリティ』は単なる『源氏物語』批評ではありません。それは小説文学の原理的手法を読解・解説した批評でもあります。小説文学の原理を探究しながらそれを継承し、現代文学に活かす方法を提示しておられるのだと言ってもよい。その意味で『文学とセクシュアリティ』は、小説文学の原理的実践解説でもあります。
ところで♪酒が飲めるぞ~♪週間が終わってしまひました(涙)。不肖・石川もお正月気分を抜け出して、明日から本格的に始動です。今年は頑張るぞ~(去年もさふ言っておりましたが)。みなさま本年もよろしくお願い申しあげます。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第033回) ■