りょんさんの詩誌時評 『No.013 現代詩手帖 2014年9月号』をアップしましたぁ。特集は『谷川俊太郎の〈こころ〉を解く』であります。関連本が思潮社さんから出版されたのでその宣伝企画でもあります。それはまあいいとして、なんかモヤモヤとした内容だなぁ。りょんさんには読んでねーだろと言われてしまひましたが、不肖・石川、特集が谷川さんといふこともあり目を通してみたのであります。
りょんさんは、『谷川俊太郎さんの書いたもんが、どーやったらこんなにわかりにくいことになるのか。「解く」ってゆうか、現代詩手帖カルチャーの中に「溶け」て、輪郭がなくなっちゃったってゆうか。ま、悪いこと言わないから、モトの本に直接あたってみた方がいいよ』と書いておられますが、石川も同感だなぁ。俊太郎さんの詩は基本的に平明です。だから自由詩の世界で抒情詩が唯一、一般商品として流通する可能性を持っているのです。問題はそれをどう評価するかです。
現代詩の詩人たちが、谷川俊太郎さんの詩を表立って高く評価して来なかったのは確かだと思います。その理由は現代詩の詩人たちが、抒情詩より重要な問題があると考えていたからだと言ってよい。それが何だったのか、あるいはそれはなぜ消滅してしまったのかを掘り下げないで抒情詩にすり寄っても魅力的な特集は組めません。
現代詩が自由詩の一タイプであるように、抒情詩タイプの詩にも歴史があります。むしろ現代詩よりもその歴史は長い。谷川さんの処女詩集の序文が三好達治さんというのは象徴的です。谷川さんは長い抒情詩の歴史に現代性を付加したわけです。『現代詩手帖』さんが抒情詩の特集を組むのなら、かりそめのものであれそういった対比がなければ面白くなりようがない。
国家、企業、雑誌、個人に至るまで、どうしても譲れないアイデンティティはあります。『現代詩手帖』さんの場合、それは当然現代詩です。でも不肖・石川、1950年代から80年代初頭くらいまでの現代詩をそれなりに読んでいますが、現在も現代詩が存続しているとはどーしても思えません。むしろ形骸化した現代詩の看板が残っているために、著者たちの書き方や思考方法が空洞化してしまっている。
俳句・短歌誌のように、初心者啓蒙のためであれ、他者に伝える時にはその意味を考えなければならない書き方(技法)を一切無視してきた詩誌は、何を拠り所としていいのかわかんなくなってるんでしょうね。足元を確認しようにも地面がない。てんでバラバラの、技術にも思想にもならない空疎な抽象的言葉が並んでいます。もそっと自由詩のアイデンティティを確認するやうな特集を組んだらどうよなどと書きますと、またりょんさんに怒られてしまひそうですが、現代詩に呪縛されている限り難しいでせうね。
■ りょん 詩誌時評 『No.013 現代詩手帖 2014年9月号』 ■