【公演情報】
公演名 文楽九月公演 第二部 〈近江源氏先陣館〉〈日高川入相花王〉
会場 国立劇場 小劇場
公演期間 9月6日~9月22日
鑑賞日 9月8日
出演
〈近江源氏先陣館〉(おうみげんじせんじんやかた)
和田兵衛上使の段
豊竹咲甫大夫 竹澤宗助
盛綱陣屋の段
(前)竹本千歳大夫 豊澤富助
(後)竹本文字久大夫 鶴澤清介
人形役割
母 微妙 吉田文雀
妻 早瀬 吉田勘彌
佐々木盛綱 吉田玉女
小三郎 吉田蓑次
小四郎 吉田玉翔
和田兵衛秀盛 吉田玉志
高綱妻 篝火 桐竹勘壽
注進 吉田文哉(14日まで) 吉田蓑紫郎(15日から)
二度の注進 吉田清五郎
北条時政 吉田玉輝
古都新左衛門 吉田蓑一郎
竹下孫八 桐竹紋吉
榛谷十郎 桐竹勘介(14日まで) 吉田玉路(15日まで)
〈日高川入相花王〉(ひだかがわいりあいざくら)渡し場の段
清姫 竹本三輪大夫
船頭 豊竹芳穂大夫
豊竹希大夫 竹本小住大夫 豊竹亘大夫
竹澤團七 鶴澤清馗 鶴澤寛太郎
野澤錦吾 鶴澤燕二郎(14日まで) 鶴澤清允(15日から)
人形役割
清姫 吉田蓑二郎
船頭 吉田玉佳
囃子 望月太明藏社中
国立劇場の文楽九月公演は三部からなり、第一部と第二部は古典作品、第三部は新作文楽という構成であった。第一部は〈双蝶々曲輪日記〉(ふたつちょうちょうくるわにっき)から五段、そして第二部は〈近江源氏先陣館〉から二段と、〈日高川入相花王〉から一段の上演を含んだ。第三部はシェイクスピア作〈ヘンリー四世〉や〈ウィンザーの陽気な女房たち〉に基づいて人形浄瑠璃の演目に仕上げられた、〈不破留寿之太夫〉(ふぁるすのたいふ)という作品だった。この記事では筆者が観劇した第二部の演目のみを取り上げたい。
〈近江源氏先陣館〉は九段にわたって展開する時代物で、1614年の大阪冬の陣を素材としながら、設定を鎌倉時代に置き換えている。豊臣家に戦を仕掛けた徳川家康を北条時政として、豊臣秀頼を源頼家として登場させるのだ。そして両陣営に分かれて戦うことになった兄弟、真田信之と真田幸村は、この作品では鎌倉時代の佐々木兄弟、つまり盛綱と高綱が当てられる。今回上演された二段〈和田兵衛上使の段〉と〈盛綱陣屋の段〉は、敵同士になった兄弟とその家族の悲劇を描いている。
初めて戦場に出た盛綱の息子小三郎は、高綱の嫡男の小四郎を生け捕りにする。その手柄を父の盛綱と母の早瀬は大いに喜ぶのだが、盛綱の母微妙は、自分の孫がもう一人の孫に捕われたことに複雑な気持ちを抱いている。頼家側から和田兵衛という大武将が盛綱を訪ねて来て、小四郎を返すよう頼む。代わりに自らの首を差し出すと約束する。盛綱はそれは受け入れがたいと申し出を断る。また時政の命令は小四郎の生け捕りだが、小四郎の名誉のために切腹させるしかないと判断する。そこで母の微妙に小四郎の説得を頼む。微妙は孫に対する愛と侍の母としての立場に心を裂かれるのだが、自分も一緒に死ぬと約束し、小四郎に無紋の裃を勧める。自害する必要を理解した小四郎は、母の篝火が近くにいると察し、死ぬ前に親にもう一度会いたいと言う。
その時、高綱が討ち死にしたという報せが届く。時政は高綱の首実検のために盛綱の家を訪れる。首を目にした小四郎は即座に切腹する。それを見た盛綱は、首は兄高綱だと時政に申し上げる。時政は喜び、褒美に盛綱に立派な鎧を残して去ってゆく。盛綱は邸に忍び込んでいた篝火を呼び、息子小四郎の傍に行かせる。首は偽物だったが、だからこそ小四郎は腹を切ったのである。全ては時政を惑わすための高綱の策略だった。ただ首は高綱に間違いないと言った盛綱は、主君を欺いたことになってしまう。盛綱は切腹しようとするが、和田兵衛が再び現われる。盛綱を狙ったかに見えた彼の鉄砲が、時政が褒美にくれた鎧に当たる。弾は中に潜んでいた時政の家臣・榛谷十郎を射貫く。和田は榛谷が密偵として鎧の中に潜んでいることを見破っていたのだ。盛綱は自害するのを思いとどまり、和田とまた戦場で会うことを約束して別れるのである。
〈近江源氏先陣館〉の八段目では、家族に対する気持ちと主君に対する忠義の間に挟まれ、悲痛な思いで引き裂かれる登場人物の物語が描かれる。観客は激しく転換する場面の連続によって、昔の物語の世界に吸い込まれるのである。
時代物の切実さとは対照的に、物語性の強い〈日高川入相花王〉は、安珍という僧に恋をした清姫の伝説を典拠とする。〈渡し場の段〉で清姫は安珍を追いかけて、日高川まで辿り着く。向こう側には安珍が向った道成寺があるので川を渡ろうとするが、渡し守は彼女を船に乗せない。船頭は清姫を渡さないように、安珍からお金をもらっていたのだ。悔しさと嫉妬の気持ちが清姫の心の中で渦巻き、それが嵐を起させる。清姫は川に身を投げ荒波を立てながら、白い蛇となって川を渡って行く。向こうの岸ではちょうど桜が咲いている季節だ。
〈近江源氏先陣館〉も〈日高川入相花王〉も、繊細だが激しい感情を抱いている登場人物たちの物語である。文楽を構成するのは大夫の語りと三味線の音楽、それに人形である。観客は大夫の、時に盛り上がり、時に深く沈む、叙情的な旋律を綴る声に耳を傾ける。語りと登場人物のセリフが交錯するが、幅広い声色と素早い役の切り替えでそれを的確に伝えてゆく。三味線の緊張感に溢れた音が、物語世界をさらに豊かで生き生きとしたものにする。浄瑠璃の大夫の芸は、物語に生命を吹き込む力を持っている。個人の才能や力量の裏に、何百年間に及ぶ語りの力強い芸の伝統を感じた。
人形は物語を視覚化するわけだが、文楽におけるその役割は独特である。人間の強烈な感情や恐ろしい出来事を〝見せる〟に当り、その表現が視覚の暴力にならないためにも人形は必要なのだ。〈近江源氏先陣館〉の場合、桶から高綱の首を取り出すシーンがある。同じ場面を本物の人間の首に似せた作り物で演じれば、多くの観客は恐怖を感じてしまうだろう。人形劇だからこそ、隠されていたものを〝見た〟という感動が生じるのである。〈日高川入相花王〉も同様である。清姫は抑えきれない愛欲と嫉妬で蛇になるが、それが人形の体で表現されるから、恐ろしさよりも彼女の強い情念が際立つのだ。
ところで能楽や歌舞伎にも、清姫伝説を典拠とする演目がある。ただ文楽とは異なり、それらは清姫が蛇となって日高川を渡って行く場面を取り上げない。能の〈道成寺〉では、悔しさで鬼女となった白拍子が道成寺の鐘に飛び入りするのが見どころである。歌舞伎の〈娘道成寺〉は女の恋心を表現する踊りが最も注目を浴びる。もちろん能楽や歌舞伎でも、演目の後半に蛇体となった清姫が登場する。ただここだけは人形浄瑠璃と同様に様式化された表現になる。いたずらに観客の恐怖をあおらず、様式化によって清姫の激しい感情を浄化した形で表現する。恐怖や嫌悪を感じてしまいそうな場面を、ソフィスティケートした形で視覚化するのである。
現代演劇ではこのような表現の様式化を行わないことが当たり前になっている。演劇でも他のメディアでも、リアルな形で〝全て〟を見せるのがある時期から主流になり、現在までその傾向が続いている。むしろ現代の私たちは、アクション映画やゲームに見える速度の速い動きや、ぞっとするような暴力などに目が慣れている。恐ろしい出来事をそのまま視覚化せず、様式化して表現する日本の伝統芸能の決まりごとが、容易には理解できないかもしれない。
ただ生身の役者の体を使う演劇は、物語と現実の境界線を曖昧にしてしまう性質がある。これに対し、人形劇は激しい感情を浄化した形で見せることができる。人形劇では感情が人間から独立し、それが人形の体を使った物語形式に当てはめられることによって、人間に自分自身の感情を客体化して意識させるかのようなのだ。その意味で人形浄瑠璃は人間の内的世界を映し出す一つの鏡である。私は「芸術」と呼ばれる複数の鏡の中で、人形浄瑠璃が最も分かりやすく、最も澄んだ映像を見せてくれる鏡だろうと思う。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■