【公演情報】
公演名 歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』(第一部)『恐怖時代』、『龍虎』
鑑賞日 8月11日
会場 歌舞伎座
作 谷崎潤一郎
演出 武智鉄二、齋藤雅文
出演
お銀の方 扇雀
茶道 珍斎 勘九郎
梅野の腰元 お由良 芝のぶ
医者 細井玄沢 亀蔵
お銀の方の女中 梅野 萬次郎
家老 春藤靭負 彌十郎
小姓 磯貝伊織之介 七之助
家臣 氏家左衛門 橘太郎
同 菅沼八郎 橋吾
申次侍 山崎源吾 橋弥
春藤家の太守 春藤采女正 橋之助 他
8月といえば、人は夏の暑さを忘れさせる涼しげな影の恵みを求めて、怪談話が行われる所へ通い出す。特に伝統芸能の方では、納涼公演がこの時期の最大の楽しみである。筆者も色々調べた上で、歌舞伎座の『八月納涼歌舞伎』の第一部にした。公演の前半は、谷崎潤一郎作、武智鉄二演出の『恐怖時代』という作品で、後半は獅童と巳之助の舞踊を見どころとする『龍虎』だった。ここでは、今回33年ぶりに再演された『恐怖時代』を取り上げたいと思う。
谷崎潤一郎は、日本国内外で主に小説家として知られているが、文壇に認められるきっかけとなった『刺青』(1910年発表)が発表される前に、『栄花物語』に題材をとった戯曲『誕生』を発表している。谷崎は複数の戯曲を残し、その作品には氏の日本古典文学の尊重と、早い段階から彼の作風の特徴になった耽美主義が伺える。『誕生』と同じように平安時代を背景とする『兄弟』、『信西』、『法成寺物語』、南北朝時代に展開する『無明と愛染』、それから江戸時代が背景となる『恐怖時代』、『お国と五平』、『十五夜物語』などが例として挙げられる。それに『或る男の半日』や『金を借りに来た男』のような現代物もあり、また現代と王朝時代を行き来する『鶯姫』のような作品もある。谷崎は戯曲という形式に可能性と魅力を感じていたのである。
「戯曲」は文学ジャンルの一つだが、登場人物の心情や環境描写を重視する小説や詩とは少し異なる創造行為である。登場人物のやり取りを中心に、出来事によって物語を進めてゆくからである。戯曲の形式でしか表現できないことがあるからこそ、古今東西の作家は度々戯曲の形式を選ぶのである。
日本で小説と戯曲の特徴と役割の違いを最も理解し、それについて徹底的に論じたのは、小説家と演劇人の活動を両立させた三島由紀夫である。三島いわく、作家が細かく全てを文字で説明する小説と違って、戯曲は作家による説明や指示を最低限にし、演出家と観客の自由な想像力を促すような形を取らなければならない。戯曲を出発点とする作品の場合、劇作家が果すべき役割は半分にしか及ばない。残りの半分はそれを舞台の上で「演劇作品」として作り上げる俳優、演出家、舞台美術家、音響担当者などの役割である。そして、その作品が本当の意味で完成されるのは、観客によって鑑賞される時点である。三島によると、この過程を経て完成を迎えた演劇作品は、劇作家自身が予想もしなかった側面を見せるのであり、それこそが芝居の台本を書く本当の楽しみである。
三島の演劇論を念頭に置いて谷崎の戯曲を読むと、笑みをこぼさずにいられない。『恐怖時代』は1916年に発表された作品である。谷崎が小説家としてデビューしてから、6年ほどしか経っていない。作家による演出指示であるト書きが多くて長く、細部に至るまで物語の場となる環境の雰囲気、登場人物の見た目や表情、彼らが交わす言葉の裏に潜む意味などが事細かに説明されている。読み物としては面白いが、この作品を舞台で上演するとなると、その繊細な描写をどの程度活かせるかが問題になる。
『恐怖時代』は江戸深川にある春藤采女正という大名の屋敷が舞台である。采女正の愛妾・お銀の方とその愛人で家老の春藤靭負、それに女中の梅野がお家乗っ取りを画策している。お銀の方と靭負の間にできた照千代を春藤家の跡継ぎにするために、懐妊中の正室を毒殺する計画である。お銀の方は、毒薬を手に入れるために協力してくれた医者の細井玄沢を殺してしまう。
正室毒殺を命じられたのは茶坊主の珍齋だが、その娘のお由良は采女正へ密告しようとして梅野に殺される。その最中、国元から二人の武士がやってくる。お銀の方に惑溺する采女正を諫めるのが目的である。お銀の方は家臣たちに自分を斬るようにと迫るが、梅野の愛人で剣の達人・磯貝伊織之介は采女正とお銀の方への恩を報いるために、家臣たちと真剣勝負をしたいと申し出、二人を斬り殺す。血に狂喜した采女正は、さらに伊織之介に女武芸者である梅野との勝負を命じる。伊織之介はためらいなく梅野を殺す。伊織之介の本当の愛人はお銀の方だったのである。
この狂躁の中、正室が誰かに毒殺されたという報せが届く。采女正と近臣らが駆け去ったあとのどさくさに、伊織之介は家老・靭負を斬り殺す。しばらく前に、お銀との関係を知られてしまったからである。しかし茶坊主・珍齋の自白でお銀の方の悪事が露見し、采女正は照千代の首を刎ねる。計画の頓挫を悟った伊織之介は主君・采女正を殺し、近臣たちも次々に斬り殺す。全てを失ったお銀の方と伊織之介は、お互いに差し違えて最後を迎えるのである。
『恐怖時代』は1921年に有楽座にて新劇として初めて上演されたが、特筆すべき反応はなかった。1951年に武智鉄二による演出で歌舞伎芝居として改めて発表され、初めて注目された。演劇評論家として活動し、古典芸能への深い理解を有していた武智鉄二は、1949年から関西の歌舞伎界で演出活動を始めた。彼が目指していたのは、古典作品の忠実な解釈に基づいた歌舞伎芸の再検討であった。
『恐怖時代』は武智公演の第8回に発表され、1951年8月に京都の南座で上演された。公演を観に来た谷崎は、「自分のイメージどおり」だと言い、感動したらしい(歌舞伎座公演のパンフレットによる)。武智演出の特徴は、原作に込められている意図を追求し、できるだけ原作に沿った演出を目指すことにあった。この方法は、現代演劇でよくある原作解体に基づいた再構成、再解釈を出発点とする演出方法とは正反対である。『恐怖時代』の場合、戯曲として書かれた原作を歌舞伎に適応させ、かつ原作にできるだけ近い演出を施すのは大変な作業だったであろう。作家による細かい演出指示は、演出家の自由を制限する。しかし武智にとっては、谷崎によるト書きをあえて舞台に活かすことは、リスクの多い試みであると同時に、大胆で魅力的な挑戦だったと思う。
歌舞伎芝居はダイナミックで、かなり速い速度で展開する。急激な場面変換や視覚的・聴覚的な効果によって観客を驚かせ、楽しませる。その高度なスペクタクル性を好む歌舞伎愛好者たちは、『恐怖時代』の序幕を観て、会話劇に近い芝居が続くことに少々の違和を感じたのではなかろうか。薄暗い和風の部屋で、豪華な着物を身に纏ったお銀の方と春藤靭負が話し合っている。それに時たま女中梅野が加わる。確かに観客は、物語の背景をこの三人の登場人物の会話から理解することになる。だが半時間にも及ぶ会話は長い。そろそろ何か面白いことは起こらないか、と観客がそわそわし始めたとたん、毒の入ったお酒を飲んだ玄沢がお銀の方の目の前で死ぬのである。
次の場も、ほぼ臆病な珍斎とその娘お由良の会話で進展するが、お銀の方の謀略を密告しようとするお由良が梅野の刀で斬られてしまう場面になって、やっとドラマティックな展開になる。血まみれになった美しい娘の倒れた姿が見事で、娘はその場面に感動した観客の拍手に見送られる。
序幕の第三場「元のお銀の方の部屋」と二幕の第一場「春藤家奥庭の場」も、ほとんど会話が中心である。珍斎の臆病さは度々笑いを誘い、梅野と伊織之介が恋人同士として出会う場面や、それを冷たい目で見るお銀の方の登場による緊張感などが、多少の面白味をかもし出す。しかしこれぞ歌舞伎と呼べるような場面は、最後の「殿中酒宴の場」である。
お銀の方を過去の悪行を知り、彼女を排除するためにやってきた国元の家臣たちが、采女正の命令で伊織之介にゆっくりと惨殺される。お酒で酔っている采女正は、その殺しの場面を面白がり、「もっと面白いもの」を求めて伊織之介に梅野と真剣勝負をするよう命じる。采女正は自分の愛した男に殺されてしまう梅野の死を非常に面白がるが、それでも満足せず、さらに殺し合いを求める。そこでお銀の方と伊織之介の計画が知られてしまい、物語は急激に終末へと向う。
最後は殺しの場面が相次ぐなか、大量の血が流れるので、それを観る観客は鳥肌が立つ。そのような残酷な場面を目にすると、寒気を感じてしまうのだ。怨霊や化け物を登場させる通常の歌舞伎とは違って、『恐怖時代』は人間の心の底に潜む悪意に注目して、その悪意による殺害を見どころとするのだから、別の意味で怖いのだ。さすが納涼の公演である。
しかし武智鉄二の演出意図は、それだけだろうか。『恐怖時代』を観た観客は、もう少し前半の長い会話劇に、面白味を加える工夫が出来たのではないかと感じるだろう。あえて作家のト書きに忠実に、ダイナミックな展開を避けたことは理解できるが、それにしても芝居の前半をもう少し面白くできたのではないかろうか・・・・。
このように考え始めた観客は、突然気付くはずである。自分たちもまた、最後の場の采女正と同じように「面白いもの」を求めている。それは登場人物が戦い合うことや、互いを殺し合うことである。つまり人間の心底の闇を暴くこの作品は、決して狂気に駆られて殺し合いを求める采女正を責めているわけではない。登場人物たちの殺し合いを「面白い」と思ってしまう観客のことを指しているのである。
『恐怖時代』にこのような仕組みがあったと悟った観客は、本当に恐ろしいものは自分の心の中に潜んでいたと気付く。予想しなかった怖さを感じてしまう。魔法の鏡のように自分の中の闇を見せてくれるこの舞台は、確かにどの怪談よりも怖い。ただそれが武智歌舞伎の素晴らしさであり、谷崎戯曲に宿る演劇的可能性だと思う。
『恐怖時代』の演出に注目してきたが、役者についても触れておきたい。扇雀が演じたお銀の方の冷淡な美しさや、笑いを誘う珍斎(勘九郎)の臆病で滑稽な姿、また残酷な武芸者であると同時に恋に落ちた女性として優しい側面を見せる梅野(萬次郎)、弱々しい美しさの裏に激しい武術者の力を秘めている伊織之介(七之助)などは魅力的で、この芝居の見どころであった。元来は戯曲で、画期的な演出を施された『恐怖時代』は通常とは違う味わいの歌舞伎作品だが、役者たちの存在感により、優れた歌舞伎芝居に仕上がっていた。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■