病院っぽい雰囲気から、夏らしく切り出した氷のようになった。薄いブルーの表紙が涼しくて、とてもよい。白っぽいだけの感じだった紙面も、くっきりはっきりと読みやすく、ボケかけた頭にも冷んやりした刺激を与えてくれそうだ。
とはいえ、もちろん個々の書き手の温度がひくい、というわけでもない。書き手は自身が書くように書くし、それが特に強い要請があるとも思えない雑誌であればなおのことだ。ただ、それらの原稿を集めた編集部の距離感とかスタンスとかで、雑誌という場ができてゆく、そこに顔を揃えた人々として記事もまたそのような距離感で読まれる瞬間もあると言えばあるだろう、という意味では面白い。
ものを書くというのはやっぱり面白いことで、どこに掲載するか、すなわちどんな読者が読むか、漠然とでもイメージしているものに影響される。つまり集めた原稿をどのように扱うか、というのもひとつの意識を示す表現だとすれば、書いた原稿がどのように扱われ、どんな読者にどんなふうに届くのか、ということによって作品表現があらかじめ変容する、ということもある。それは著者と編集部、あるいは読者との意識の、または無意識的のキャッチボールであると言えよう。
編集部というところは、もちろん自分たちの読者をよく把握しているし、雑誌というものは結局のところ、それら読者のために作られる。公器であるとか第三の権力とか世論を形成するとかなんとか言われようと、あらゆる商業誌は雑誌を買ってくれる読者のものだ。読者を増やし、その彼らを満足させるためのものだ。
その意味で、メディア = 媒介という呼び名は、書き手がその読者にアクセスするためのもの、ということを示すばかりである。読者にとっては、別に何に対するメディアでもない。少なくとも世間一般の話題や情報、関心事にアクセスするという意味では、何日かに一回、店頭に並ぶ紙の束を購入することの意味は薄れつつある。
では読者、特に固定読者は紙の雑誌の何を買っているのか。買うことによって何にアクセスするのかと問えば、その雑誌の編集部が作り出す幻想に、と答えるほかはあるまい。文芸誌なら、文壇なり詩壇なりに読者自身がアクセスする幻想を売る以外の失われて久しい。そしてこの冷んやりした距離感を保つ三田文学は、読者に何を与えているのか。
冷や冷やした感じ、距離感は言葉を変えれば、おっかなびっくりという雰囲気がどこか漂う。巻頭詩、特集(それも遠藤周作を一般化した「第三の新人」特集)、新人賞受賞者も含めた小説作品、キャリアの長い作家のエッセイ、俳句とエッセイ、短歌とエッセイ。立派に取り揃えている。偏りもない「文芸誌」の形式を踏襲し、三田がらみのコンテンツも過剰さもなく入れ込む。しかし、なぜこれほどのバランスをとらなくてはならないのか。バランスをとるとは、それを足がかりに別の次元へ進むためのものだろうに。
その別の次元に何を目指すかという価値観が、本質的にその雑誌の、また人間の集団のカルチャーを決定する。かつて三田文学は品のいい雑誌で、その三田特有の価値観が自然にバランスを生み出していた。今に始まったことではないが、三田文学にはかつての品のよさ、独特の矜持はない。それがなくてはならない、というわけではない。ただ、その代わりに埋め込まれた信念とか信仰が、バランスの中に隠れて見えにくい。それが不気味なのである。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■