久しぶりに手に取ると、なかなか感慨深い。大学は昔のようではなく、同時に昔のままでもある、と思える。そして文学というものを大学でどう扱うか、そのスタンスの取り方は、他の学問や知識とは違った特殊なものがあるようでもある。
大学には今、冷暖房は当たり前、ファストフード店やらドトールやらがあり、クラブ活動の部室はキレイで、学科の名前は魅力的と、至れり尽くせりである。少子化となって、ハッと気づけば学生さんはお客さまだった、というわけか。単位を落としたり、ときに叱り飛ばしたりするのも、教育という名のサービスだから、スポンサーたる親からクレームをつけられない程度なら歓迎される。
そんな中で、今やどこの大学でも学内文芸誌がある。もちろん文芸誌というからには本来はジャーナリズムの入り口であるべきものであって、文学部の学生たちの憧れの的であったはずだ。しかしそのようなジャーナリズムと呼べる文芸誌を持つのは早稲田と慶応のみで、それは今でも変わらないが、ただ各大学の学内文芸誌がそれと見紛うほどに豪華になった。これは大学のサービス業化とカラー印刷のコストダウンに因るところが大きい。
で、文芸誌と見紛うばかりに豪華であっても、手に取りさえすれば違うとわかる。書き手のラインナップもさることながら、作品およびそれの読者に対するスタンスが、やはりジャーナルと学内文芸誌とは決定的に異なるのだ。それは必ずしも後者が前者に劣ることを意味しないが、乗り越えるべきハードルは高い。
江古田文学という雑誌が、そんなふうにいろいろ考えさせるのは、学内文芸誌のジャーナル志向が極めて大学的に表わされているためだろう。外向きなジャーナリズム性は、まず学外者のラインナップに現れるが、江古田文学のそれは外部者の雰囲気を欠いている。
それは意図的なものかもしれない。必ずしもプレステージにこだわらなくても、外部の風を取り入れることは不可能ではない以上、何かのインサイドにいることを前提として存在していることをもって、あるカルチャーを醸し出すというのはそれ自体、江古田文学のカルチャーだと言える。そしてそれは恣意的なものではない、学内文芸誌としてのあり方に忠実なのだ、という帰結になる。
おそらくその結果として、江古田文学カルチャーは、それに触れた人々の、たとえば同人誌なり、いわゆる詩壇なり、あるいは大学の講師室なりという顔を突き合わせる関係のインサイダーぶりを誇張してみせることになる。これについては意図したものと言うより、やはりハードルにつまずいたと思われる。
実際、インサイダー的な雰囲気というものを一口に定義すれば、利権なき利権、ということになるだろうか。冷静に考えれば利権などなく、むしろそれに関わることによって時間の無駄という人生最大の損失が生まれる。が、そのように考える者を排除することで作り出される雰囲気は、幻の利得に接近する競争心理をあおる。つまり排除された者を敗者と考えることで、そのインサイダーのカルチャーに属する者の全員が勝者の錯覚に陥ることができる。それが島国日本の文化を示す部分があるという意味では、大変興味深い。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■