編集長が交代となり、それに合わせて誌面が変わった。まず文字通りの誌面で、全体が白っぽい。ぶ厚くて、なんとなく “ 病院 ” っぽい。
病院、と書いて納得したのだが、つまり、そっとしておかねば感が漂う。全体としては立派になり、そこに細かい文字を詰め込んでいくジャーナリスティック感には乏しいのは三田の伝統ではある。うす汚くて汗染みのあるようなジャーナリズムごっこよりずっといいけれど、しかし三田には三田特有の強靭さがあったのだが、それはここしばらくと同様に姿を消したままだ。
三田の品のいい上品さとはつまり、静かな矜恃というべきもので、それが拠ってきたるものは特にない。三田は村だとか、すべての道は慶應に通ずるとか、いろいろと揶揄されたものだが、あまりにも大前提である慶應愛は必ずしも声高に主張されることなく、また慶應の外を特に無視したり軽蔑したりもしない。敬うべきは敬い、軽すべきは黙って斥け、ただなんとなくの懐かしさと漠然とした誇りから、慶應の関係コンテンツが並ぶという。それは人として当然でなくね、というのが三田の伝統というものだった。懐かしい…。
この何とも言葉にしづらい、そこはかとない慶應感が失われてから久しいので、今度のカラーがどうこうと文句を付けることはないのだけれど、この病院臭さというか抹香臭さというか、妙な粉っぽさみたいなものは何だろうか。触ると、指が粉で白くなるという。
須賀敦子は正直、そういう人もいたな、というぐらいの書き手ではあったし、だからと言って慶應と縁があるその人の特集を組むのが悪いとは全然思わない。が、その狙いがよくつかめず、しかし粉まみれの大福みたいに手でつかむと粉で白くなりそうで、ぎゅっと握る気になれない。大福だから、好きな人にはちょっとおいしい、ということでいいのか。
巻頭エッセイは、よしもとばななの「人生最後のナンパ」であって、これもぴりっとはしない。亡くなった母上のことを書いたものだが、物書きであれば、そういうテーマでは、嫌でも記憶に残るような名文を書くのが普通ではないだろうか。格別悪くはないけれど、どうしてこんなに素人っぽいんだろう、と思ってしまった。
もちろん、その素人っぽいところががいいのだ、という評価というか、別の価値観だってあり得る。などと、フォローを入れないといけない気がするほど、やっばり “ 病院 ” っぽいのだ。著者たちが病人っぽいというわけでは、決してないのだが。何か別の価値観、健常で元気いっぱいで大忙しのときには触れてみたくもない、そんな危うくて大真面目で素人らしい価値観が粉のように振られ、何かを白っぽく覆い隠しているような。
字が大きくなって読みやすく、白いベッドのような余白をふんだんに残しているのが、“ 病者 ” への配慮である、わけはない。ただ、「我々はすべて多かれ少なかれ病者なのである」とか、今にも教えをたまわりそうで怖いのだ。文学は弱者のものではない、という健康な矜恃からしか、本当の意味で文学は生まれてこないと思うが。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■