きゃぁぁぁぁっ! 佐藤愛子先生の新連載小説『晩鐘』がはじまりましたことよっ。愛子先生は平岩弓枝先生とならぶ『オール讀物』の2大看板女流作家様でいらっしゃるの。本が売れているという点では、もっと売れっ子の女流作家様はいらっしゃいますわ。でもお2人は別格なの。たとえて言うなら、平岩先生は静かに座禅を組んでいらっしゃる禅の修行者のような作家様、愛子先生は護摩の炎で顔を真っ赤にして太鼓を打ち鳴らしていらっしゃる密教の修験者のような先生ですの。この両極端な作風の先生がいらっしゃるから、ほかの女流作家様は安心していろいろなタイプの作品を発表できるのではないかと思います。『オール』にははっきりとした雑誌文化がございますわね。
設定からいって『晩鐘』は愛子先生の実体験を下敷きにした作品です。冒頭で主人公の杉のもとに娘の多恵から電話がかかってきます。「パパ、死んだよ、今」と。パパは畑中辰彦で、杉は辰彦との間に娘の多恵をもうけましたが、もう10年以上前に離婚しています。娘から元夫の死をつたえられた杉は、「そう」「ご苦労さん」と答えます。この潔癖さが愛子先生です。もちろん主人公の杉は、辰彦が病気で入院していると聞いても見舞いにいきません。お葬式にも列席しません。でもそこから物語が動きだします。それもまた愛子先生の文学でございます。アメーバーのように小説の文字が染み出してくるのです。
ある時、先生は仰言いました。
「畑中君には文体があるね」
それは私に向って、「文体がない」といわれた後の言葉でした。「しかし」と先生はつけ加えられましたが、その後、それきり何もいわれませんでした。
しかし?・・・・・なんですか?
今、私はそうお訊ねしたい。(中略)先生は畑中辰彦の中にある断乎とした自信、「自尊心の根っこ」を感じ取られたのではなかったか・・・。無力感のようなもの、いっても無駄という感覚を持たれたのではなかったか・・・・・ずっと後になって私はそう思うようになりました。(中略)
「杉さんは全く、素直な人だねえ・・・・・」
それまで一度だって誰からも素直だなんていわれたことのない私ですから、怪訝に思ったのでしたが、今になってわかるような気がします。畑中辰彦を盲目的に信頼して尊敬している藤田杉を、多分、先生は嗟嘆しておられたのでしょう。
杉と辰彦は戦後まもない頃に、小説同人誌の同人として知り合いました。先生とは杉たち同人誌仲間が慕っていた梅津先生という先輩作家です。杉は辰彦の死をきっかけに梅津先生に手紙を書き始めます。といっても梅津先生が手紙をお読みになることはありません。すでにお亡くなりになっているからです。杉は過去の時間の中にどっしりと腰をすえて動かない梅津先生に手紙を書きます。梅津先生が若かった自分たちを見守り、その慧眼でそれぞれの本質を見抜いていたからです。杉は梅津先生の言葉を反芻し、先生に問いかけることで過去に肉薄しようと試みます。
梅津先生が杉におっしゃった「文体がない」という言葉は、文体という一般概念に対する愛子先生の皮肉だと思います。愛子先生の愛読者なら誰でも知っていることですが、先生はほかの作家様よりも硬質で明快な文体をお持ちです。しかしそれは「書き方」という意味での文体であり、愛子先生が大切になさっている文体はそれとは別のものです。それは小説文学の本質に迫るある肉体性だと言ってもいいかもしれません。大衆小説のセオリーを守りながら、愛子先生は決して普通の小説をお書きになりません。一般的な小説を内部から食い荒らすような表現に至り着くことが愛子先生のお考えになる文体なのです。
恐らく連載が進むにつれて、辰彦の「断乎とした自信」や「自尊心の根っこ」は粉々に打ち砕かれるでしょう。それは辰彦の小説に「文体」をもたらしたかもしれませんが、たいしたものではないのです。また杉の「辰彦を盲目的に信頼して尊敬してい」た気持ちも様々な角度から解体されてゆくはずです。でもそのあとの廃墟のような地平から愛子先生の人間観、世界観のようなものが浮かび出るのです。その意味で平岩先生と同様、愛子先生にとっても小説的「事件」はさほど重要ではありません。読者は浅くも深くもない、人間存在そのもののような先生の文章に、ただ目と精神をゆだねることを求められているのです。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■