みなさま「あけおめ~」。もう4月も終わりですよなんて野暮なことはおっしゃらずに、とりあえず「ことよろ~」と挨拶おしっ!。でないと先に進めないじゃござんせんか。こういうネット言葉、すこし前まではアテクシも抵抗があったのですが、最近はなにげに使っておりますわねぇ。省略文がふえたのは、インターネットが完全普及した10年前くらいからかしら。欧米言語でもいちだんと省略文が多くなったように感じます。もしかすると情報の飛躍的増大が言葉の短縮化を生んでいるのかな。金田一先生にご意見をおうかがいしたいわぁ。というわけで、今回は『オール讀物 2012年1月号』でございます。アテクシもさくさく時評を書いて、最新号までアップデートしていきますわよっ。
今号は恒例の『新春・人気作家総力特集』ですが、なんといっても巻頭の平岩弓枝先生の『新・御宿かわせみ』がイチオシでございます。先生の『御宿かわせみ』シリーズは、『オール』の顔といってもさしつかえございません。『オール』に『御宿かわせみ』が掲載されていないと、なんとなく落ちつかないのよねぇ。そりゃあストーリーのおもしろさや斬新さだけなら、ほかにもすぐれた作品がたくさんございますことよ。でも先生の『御宿かわせみ』はそういった作品とは質がちがいますの。一言でいうと「上善水の如し」。この成語、水のように自在で淡々とした生き方が最高の人生だという意味ですが、先生の作品はまさにその味わいです。いつまでも続いてほしいと思わせる連作でございます。
たしかに、時代は変わっても悪事に変わりはないとるいも思う。そして悪を憎み、正義を守ろうとする人の心も脈々と受け継がれている。
ふと、るいはどこかで呼ばれたような気がしてあたりを見廻した。
何も変わっていない、と一人合点した。
その人は武士のくせに寒がりであった。その人がいつ来てもいいように、この部屋は冬の到来と共に早や早やと炬燵をしつらえ、長火鉢には鉄瓶が湯気を立てていた。
そして、今、その人そっくりな声と口調でものをいう若者が満足そうに炬燵に膝を入れ、るいのいれた煎茶を飲んでいる。
引用の箇所の説明をすると、「るい」さんは御宿かわせみの女主人、「その人」はるいさんのご主人で今は行方不明の東吾さん、「若者」は東吾さんが琴江さんとの一夜の契りでもうけた神林麻太郎さんということになります。ただそんなことはしらなくてもよござんす。『御宿かわせみ』は昭和48年(1973年)からはじまった物語なので、登場人物も時代設定もすこしずつ変わっています。でも一話読み切りでストーリーはとても単純ですから、それまでの背景をしっている必要はありません。たいていの場合、殺人や窃盗などの事件がおこり、それが30枚ほどの短編の中できちんと解決されてゆきます。つまり大衆小説の目玉である「事件」は、『御宿かわせみ』ではさほど重要ではないのです。
確かに『御宿かわせみ』には、東吾さんの失踪や神林麻太郎さんの出生にまつわる謎があります。しかしそれは物語を書きすすめていくための設定上の謎です。どうしても隠しておかなければならない秘密、サスペンス小説のように謎解きがクライマックスになるような秘密はありません。『御宿かわせみ』ではすべてが文字で表現されます。「その人は武士のくせに寒がりであった」と簡潔な文章で江戸から明治への時間の流れが表され、「時代は変わっても」なにも「変わりはない」という形で同質の物語がくりかえされます。作品の主人公は『御宿かわせみ』で、この宿が存続するかぎり主人公や登場人物はいくらでも変えられるのです。
平岩先生の文章は名人芸に近い質のものだと思います。金魚屋さんが重視する学問としての文学ではなく、人々を楽しませたあとにまた舞台の袖にふっと消えてゆくような文芸の「芸」です。『御宿かわせみ』の主題は男女や金などを巡る人間の愛憎劇ですが、それを描く平岩先生の筆は温かくも冷たくもない。物語の表面はそれなりにざわついているのに中心は静かです。
つきつめて言えば、わたしたちは『御宿かわせみ』を読むことで平岩先生の目を身近に感じているのです。いつしか細かなストーリーは消え去って、平岩先生が作り上げた『御宿かわせみ』の幻だけが、くっきりとわたしたちの心の中に浮かび上がります。かわせみからもれる灯りを見つめていれば、わたしたちは安心して生きていけるかのようです。それもまた優れた文学のありかたではないでしょうか。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■