【公演情報】
演目 多田富雄三回忌追悼能公演〈無明の井〉(むみょうのい)
鑑賞日 2012年4月21日
会場 国立能楽堂
作 多田富雄
演出 笠井賢一
出演
前シテ(漁夫の霊)∕後シテ(脳死の男の霊) 野村四郎
前ツレ(里女)∕後ツレ(移植をうけた女の霊) 片山九郎右衛門
ワキ(旅僧) 森 常好
アイ(所の者) 山本泰太郎
笛 松田弘之
小鼓 大倉源次郎
大鼓 亀井広忠
太鼓 小寺真佐人
地謡 谷本健吾 小早川 修
岡田麗史 柴田 稔
馬野正基 浅見慈一
坂真太郎 浅見真州
後見 鵜沢 久 清水寛二
多田富雄作〈無明の井〉は新作能という能の種類に属しており、現代人の意識に強く訴えかける作品として長い間注目を浴びてきた。上演を観たのは2年前のことだが、新作能の意義と可能性を見せる見事な一例としてここで紹介したいと思う。
能の現行曲数(レパートリー)は約250曲に及ぶ。つまり能の公演を観に行く時、その250曲の中の一つか二つが番組に入っている。これらのほとんどは室町時代に作られた演目だが、江戸時代に公式的に古典として認められ、よく上演される演目である。しかし現存する能の数は、演じられなくなった廃曲と、室町後期や江戸時代に主に素人能役者によって書かれた番外謡曲(上演を目的とせず、謡本としてのみ存在している曲が多い)、及び江戸時代に詩人・歌人・能楽研究者などによって作られた新作能を含めて、実は約4000曲に及ぶ。新しい能作品を作る活動はどの時代でも行われていて、能の世界の固定化を免れるための手段の一つである。
新作能の中には古典的な能の形に添う作品があり、能の様式を借りるが、古典的な謡い方・舞い方に縛られない前衛的な作品もある。新作能を上演する際、特に注意を払うべきなのは、節付け(詞章の各部分に当たる謡い方)と型付け(演技、つまり所作や舞い)である。例えば現代的な問題をテーマとする能の場合、どの程度まで古典的な型に従いながら新しい演技手法を取り入れるのか、そのバランスが問題になるのであり、違和感が生じないよう工夫しなければならない。それ故、新作能は極めて実験的であり、上演されるのは比較的に稀である。一回以上上演された新作能は非常に少ない。最も上演された新作能としては、ウィリアム・イェイツ原作、横道萬理雄作、観世寿夫節付け・型付けの〈鷹姫〉が有名だ。永遠の命の追求とその空しさがテーマで、古典的な世界観から離れないが、演技上では極めて前衛的な曲である。完成度の高い作品として、国内外で複数回上演されている。
免疫学者であり詩人・能作者としても活動した多田富雄(1934年‐2010年)の新作能〈無明の井〉は、1991年初演で、それ以来日本や海外で複数回上演された。〈鷹姫〉と同様、新作能としては珍しい例だ。この作品のテーマは現代社会で激しい論争の元になった脳死や臓器移植をめぐる問題であり、現実と深く関わる内容が大きな反響を呼んだ。多田氏は研究者だが、脳死状態で身体的な死が認められるべきかどうか、また脳死段階で臓器の摘出とその移植が許されるべきかという問題に対して大きな疑問を抱いた。物事を細分化することで生命を理解しようとする科学の立場では、生死にまつわる論争には答えが出ないはずだという多田氏の考えが、この問題を芸術の手法で扱うきっかけとなった。多田氏は死者が登場して、生前の自分を振り返ることをモチーフにする能はこのテーマに最も相応しい様式を持っていると考え、脳死・臓器移植の問題を能作品にしたのである。
〈無明の井〉の構成は、あらゆる夢幻能の設定を借りている。荒野で夜を明かす旅僧の夢に近くの里に住む女が現われる。女は荒野にある涸れ井戸から水を汲もうとする。女によると、その水は永遠の命を与えてくれる「変若水」(おちみず)である。しかし女が井戸から水を汲もうとすると、それを許せないという男が現れ、二人は水争いをする。幻影が一旦消え、近くに住んでいる者が、僧に二人の争いの原因を説明する。
男は海で嵐に遭い、半死状態で陸に打ち上げられているのを浦の里人に発見された。男は何時間経っても意識が戻らないままだった。その国の君主に重い病気に悩まされている娘がいて、娘の命を救う唯一の方法は、扁鵲(へんしゃく)という名医による心臓移植だけだった。扁鵲は難破して意識のない男のところへ行き、彼を看て魂はもう冥途にいると判定し、男の心臓を娘の体に移植した。それにより彼女の命が助かったが、心臓を摘出された男に対して深い後悔を感じ、結局懺悔の人生を送った。
後半ではこの物語を聞いた僧の前に再び二人の霊が現われ、命の源を争いながらお互いを責める。男は魂が冥途に行こうとしても、自分の心臓がまだ生きているから成仏できないと訴える。一方、女は水無き古井戸の中に閉じ込められたようで、他人の命を奪って永らえた自分が許せないと訴える。救いのない苦しみにさいなまれる二人の霊は、僧に弔いのお祈りを頼み、涸れ井戸の底へ消えてゆく。
〈無明の井〉は、世阿弥らが論じた能の作技法を見事に取り入れた作品である。夢幻能形式の作品を作るには、物語の拠り所となる典拠が必要である。多田氏は『万葉集』に登場する古代中国の名医・扁鵲の話をこの能の中心に置き、脳死・臓器移植の倫理を問う物語を作っている。また能独特の雰囲気をかもし出すためには、和歌や故事を連想させる言葉が必須である。そのため多田氏は作品で、『万葉集』の歌やダンテの『神曲』の地獄描写などを引用している。現代的なテーマを取り上げながら、この作品は正統的な能の様式を持っているのだ。
ただ物語が繰り広げられる場所の扱い方に関しては、能の愛好者は少し違和を感じてしまうかもしれない。能では物語の場所と時間に関する約束事が特に厳密である。夢幻能では旅の僧と幽霊が、どこでどうして出会うのか、はっきりとした理由がないと作品として成り立たない。能の世界では、幽霊は生前の自分とは関係のない場所には現れないといった、常識的な決まりごとがあるのだ。〈無明の井〉では、井戸は名前のない荒野に置かれている。現代の観客にとっては荒野に涸れ井戸があるだけで情報的には充分かもしれない。しかし世阿弥の能作の規則から言うと、場所(名前)が特定されない荒野での僧と幽霊の出会いは、設定として空想的すぎて説得力がないのである。
しかしこの作品の場合、能としての出来不出来よりも、問題提起的なテーマと、それによって喚起される能の表現可能性の方が重要なのではないだろうか。脳死・臓器移植という現代的テーマを、あえて能の様式を借りて表現することには大きな意義がある。科学的な考察は万能ではなく、芸術的な発想でしか解答や核心に近づけない問題があるからである。能の独特な世界観を援用した〈無明の井〉は、能という芸術が現代人にとってどのような意味を持っているのかを、示唆しているように思う。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■