【公演情報】
演目 江戸糸あやつり人形座 創立10周年記念公演 『アルトー24時++再び』
鑑賞日 6月1日
会場 東京芸術劇場 シアターイースト
脚色・構成・演出 芥正彦
人形演出 結城一糸
原作脚本 鈴木創士
出演
芥正彦 (アルトー∕ミシェル・フーコー)
結城一糸 〈人形〉(アルトー)
結城民子 〈人形〉(看護婦∕シリアの皇女母∕演劇教室の女∕少女ネネカ)
結城敬太 〈人形〉(看護人∕シリアの皇女娘∕サムライ娘∕警官∕二人アルトー∕若き詩人)
結城榮 〈人形〉(院長∕シリアの皇女祖母∕警官∕演劇教室のアルトー)
金子展尚 〈人形〉(看護人∕神父∕ジャン=ルイ・バロー∕二人アルトー)
首くくり栲象 (桃色福助∕猿田彦∕アルトー)
分身Mr. Oこと大森政秀 (悪霊∕鞭打つ医者)
松下正巳 (白猿∕鞭打たれる患者∕メルトダウン)
田村泰二郎 (犬∕患者∕院長∕ヒロヒト∕ゴッホ)
杉田丈作 (せむし男∕患者)
平井賢治 (犬∕患者∕ゴッホ)
小松亨 (アナイス・ニン∕死せる母∕メルトダウン)
光瀬指絵 (看護婦∕メルトダウン)
三坂知絵子 (ユリア・ソエミア∕メルトダウン)
ちせ (ヘリオガバルス)
堀ようこ (白猿∕患者)
不埒ライフ (患者∕馬∕メルトダウン)
平野貴大 (犬∕患者∕演劇教室の男∕ゴッホ)
松永祐野 (犬∕患者∕ゴッホ)
中島晴矢 (三島由紀夫)
上野早紀 (患者)〈人形〉(神父)
河村啓史 (犬∕患者∕ゴッホ)
北村魚 (管理人のおばさん)
川口典成 (ジャック・ラカン)
菅原顕一 (ジャン・ジュネ∕患者∕ゴッホ)
岸本一郎 (ジル・ドゥルーズ)
鴻英良 (ジャック・デリダ)
音楽 佐藤薫+BANANA-UG(EP-4 unit3)
ゲスト出演 山川冬樹、大谷能生、伊東篤宏
日本の糸あやつり人形芝居をはじめて観た時、人形の動きの細かさにとても驚いた覚えがある。それに、人形遣いの方がずっと人形の後ろにいて、セリフを言いながら手板に結んだ無数の糸で人形の動きを操作しているのに、人形自体がまるで命のあるものに見えた。観客が観ているのは人形だけなのに、人形と人形遣いが一体になって舞台に立っているようだった。不思議な感覚だった。
糸あやつり人形芝居は江戸時代前期から一般的に好まれ、時代とともにその芸が磨かれ続けて今日に至る。歌舞伎や文楽を生み出した町人文化が糸あやつり人形芝居の根源にもある。歌舞伎・文楽と一緒に江戸・明治時代とそれ以降を歩んできた芸であり、同じ古典作品を上演することが多い。しかし近代に入ってから、西洋の古典作品や近代演劇の作品において伝統的な糸あやつり人形芝居の特徴を生かす試みも評判になった。それはこの芸ならではの表現の柔軟性を証明している。
江戸糸あやつり人形座はこの芸を代表する一座として活動している。主宰者の結城一糸は、糸あやつり人形劇の可能性をさらに発展させたいという思いを抱き、アヴァンギャルド演劇にも取り組んでいる。座の創立10 周年記念公演『アルトー24時++再び』もその趣旨を伝える作品である。
『アルトー24時++再び』には先行する作品がある。2011年9月に上演された『アルトー24時』である。この作品はアントナン・アルトーの最後の日を想像しながら、ヨーロッパ演劇に強い影響を及ぼした芸術論を残した彼の世界観をイメージ化する意図で作られた。しかし演出家の芥正彦氏や人形演出担当の結城一糸氏の言葉を読む限り、今回の作品は『アルトー24時』の再演ではないようだ。『アルトー24時++再び』はこの作品を手がけた芸術家たちによって、自分たちの演劇の本質をより深く追求するためのきっかけだと捉えられている。また技術面でも新しい要素が取り入れられているのであり、「再演」という枠組みを超えた作品なのだ。
20世紀前半のフランスで活動した演劇人アントナン・アルトーは波乱に満ちた人生を送った。彼が残した演劇論には全滅を基にした復活への願いとでも呼べるものがある。アルトーは、「社会」の働きによって支えられ続け、どこか機械的になってしまった近代の人間を「眠りから覚ます」ような芸術を要求した。第一次、そして第二次世界大戦の恐ろしさを目撃した彼は、美しいものを創造する力の傍ら、他人の人生や自分の生きている環境を亡ぼす力も備えている「人間」の本性の姿を見ていた。それが彼独特の演劇論のきっかけになったと考えられる。
アルトーの著書は、演劇には人間を根源的に変容させる夥しい力があるという観念を伝えている。特に彼によって発明された「残酷演劇」という概念は、ヨーロッパの近代演劇において革命的だった。衝撃的な芸術表現で観客の固定化した世界観を揺るがすのがこの演劇形式の狙いである。品位を最低まで落として、自分の行動を規制する全ての概念を廃したら、残るのは果てしない空しさだけである。しかしその空しさの中で、人間は息をすること、歩くこと、立つことなどを全て改めて学ばなければならない。アルトーの残酷演劇はその状態を実現しようとするのであって、人間に投げつけられた挑戦状のようなものだ。
『アルトー24 時++再び』は残酷演劇を実践する試みだった。この作品ではアルトー自身の物語、演劇活動、そして彼を悩ませた精神病の描写が、世の中で起こっている出来事と混交する。描写される世界の事情はアルトーが生きた時代やフランスに制限されない。彼と同時代の人間による人間の大虐殺、古代の神話や現代の原子力発電所事故などが、アルトーのヴィジョンに織り交ぜて表現される。人間の精神の底に宿る原型、または衝動やどうしても満たされない性的本能などが悪霊の形を取り、ときおりアルトーと同じ病院にいる患者たちに見えることもある。このように幻覚と現実を行き来する演劇空間のなかで、観客は眩暈を感じざるを得ない。それと同時に、心をかき乱すような場面や衝撃的なイメージと音響効果によって、舞台を観ている者の感覚は圧迫される。
堕落した人間の光景に立ち会わされ、精神的な痛みと、瞬間的に変わる眩しい光や爆音に身体的な痛みを覚えさせられた観客は、麻痺に近い状態になる。そういった意味で、残酷演劇はとても感覚的な演劇だといえる。ちなみに、アングラ演劇と深い縁のある方々がこの舞台を手がけたことも偶然ではない。社会の体制や公式に認められた芸術的基準に対して疑問を抱き、そのルールに反発する姿勢は、アルトーの演劇論と気持ちが通い合う。
『アルトー24 時++再び』の最も印象的な局面は、「分身」の過程を無限に繰り返し表現しているところだ。アルトーを悩ませる幻覚症状による分身、精神的な分身、個人と他人との絶縁、原子核の分裂など、この作品では一人の人間の意識の中で世界全体が散乱している状態を表現するために人形が使われている。その存在感はとても大きい。人形のアルトーが舞台に立っていながらそれを操るもう一人のアルトーがいて、それ以外にも複数のアルトーがいるので、目まぐるしく変化する幻覚の真っ只中にいるかのようだ。『演劇とその分身』の著者に捧げる作品で見事に生かされた糸あやつり人形の技術はいかにも効果的だった。
糸あやつり人形の芸、現代演劇の俳優や舞踏家の身体性、前衛的な音楽や美術、そして20世紀の波乱を貫いて現代を形作った思想、その全ての要素を混交させたこの作品は、アルトーが夢見た残酷演劇を作ることに成功した。このような舞台が人間を根源まで変容させるような力を持つかどうかは別として、本公演の観客は人間に関する残酷な真実を目にしたことによる精神的且つ身体的な傷を負いながら、しばらく芸術や人生に対する自分の姿勢を改めざるを得ないだろう。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■