北村匡平さんの映画批評『創造的映画のポイエティーク』『No.004 コミュニケーションの不可能性と距離の映画学―フェデリコ・フェリーニ『道』』をアップしましたぁ。フェリーニ初期の代表作『道』を題材に、彼の映画の〝「距離」の主題〟について考察しておられます。北村さんは、『ここでいう「距離」とは時間と空間のどちらにもあてはまるものであり、映画というメディアを巧みに操りながらフェリーニは「距離」の主題にコミュニケーションの不可能性を表象する』と書いておられます。
よく知られているやうに、『道』は粗暴な大道芸人ザンバノとジェルソミーナ、それにイル・マットの物語です。ザンバノは無垢なジェルソミーナを金で買ってこき使うわけですが、彼女は耐えきれずにイル・マットの所に逃げ出す。イル・マットも大道芸人でザンバノの知り合いですが、怒ったザンバノはイル・マットを殺してしまう。イル・マット殺しを目撃して放心したジェルソミーナをザンバノは置き去りにしますが、数年後、ある海辺の町で聞き覚えのある音楽を耳にします。イル・マットがジェルソミーナに教えた曲でした。ザンバノはその町でジェルソミーナが窮死したことを知り、浜辺で号泣します。
このようなストーリーのため、『道』は『人間未満のジェルソミーナと粗野で野蛮なザンパノが、綱渡り芸人であるイル・マットという媒介項を通過することで、人間愛に目覚める物語だと認識されている』(北村)。しかし北村さんは、『人間の持つ優しさや悲しみといった感情表現を持たないザンパノも、ジェルソミーナ同様、「人間」ではない。この動物同士の戯れを「人間」に昇華させるメディウムが・・・悲しくも美しいシンプルなメロディーであった。・・・イル・マットからジェルソミーナへ、そしてザンパノへと伝わったが、実際のジェルソミーナとザンパノのコミュニケーションは「失敗」し続けていた。フェリーニのコミュニケーションは、表面上「失敗」することによって、何か別の次元の伝達を可能にしているのである』と評しておられます。
優れた読解だと思います。また単純なヒューマニズムでは割り切れない部分があるから、フェリーニの映画はいつまでも魅力的なのです。
■ 北村匡平 映画批評『創造的映画のポイエティーク』『No.004 コミュニケーションの不可能性と距離の映画学―フェデリコ・フェリーニ『道』』 ■