「世の中がサッカーで盛り上がっている今だからこそ!」の「特集 僕たちは、野球が大好きだ。」このタイトルの短い一文に、「、」と「。」が一個ずつ丁寧に使われているところに味がある。つまりこれは「文」であることを強調しているものだと読める。
実際、野球ほど「文学的」なスポーツはないし、それは野球をめぐる小説、映画の傑作の多さ、正岡子規との関わりなどからすでによく認識されていると思う。ゲームの流れに緩急があるところも、言葉が入り込む余地を残している。ベースをめぐってホームに戻る、という自己完結的な世界観もまた、対立する存在による陣地の意識で世界が成立するサッカーなどよりも文学の営為に近い。
特集では、松井秀喜からのメッセージ、江夏豊のロングインタビューが掲載されている。スポーツ選手の言葉、というのは不思議だ。何とも言いようのない魅力がある場合がある。しかし野球がいかに文学的だと言っても、それは我々の側で勝手に感じることに過ぎない。野球を実地にプレイする側が「文学」に接近するのは、必ずしもよろしくない気がする。
それはもしかすると「文学」に飽きあきした我々が、スポーツする肉体に対し、お門違いの無い物ねだりをしているだけかもしれない。ただやはり、そこにあるのは肉体の言語という一種の外国語であってほしい、と思うのだ。元野球選手でなくてはわからないだろう機微を含んだ野球解説の言葉、なるほど現役選手でなくては出てこないリアリティある感覚、それらももちろん貴重だが、日常言語に翻訳されている。
何の屈折も芸もない一言が、ある肉体から絞り出された瞬間、限りない色合いを放つ、ということがある。そこでその肉体は、肉体の言語によって深く自己と対話しているのだ、ということが伝わってくるのだ。そこでは寡黙であること、言葉が用をなさないことが逆説的にその別の言語の存在を浮かび上がらせる。言葉が貧しいほうが、より一層の内面の豊かさを示すという、スポーツ選手に特有の現象だ。
野球はなかでも比較的、この言語と肉体の齟齬が表面化しやすい。それは野球が「文学的」であるというのとはまた、違う側面からうかがわれる。我々は、賢く、言語能力も高い選手に感銘を受ける。その通りだ、とその言葉を肯定もする。しかし我々が真に愛するのは、「鯖」を「魚ヘンにブルー」と言った長嶋であるのだ。
野球の面白いところは、本来は姿を見せるべきでない言葉が現れてしまうだけの時間があるところだろう。ゲームの最中、ベンチで、あるいはホームベースの後ろで、または各塁ベースで、敵であれ味方であれ、おしゃべりするだけの時間があること。それこそが野球の特異な点だ。なでしこJAPANのエースが(フリーキックを)「私はイヤよ!」と叫んだという、その一言だけを繰り返し取り上げなくてはならないことに比べれば、豊かこの上ない。
もちろんこの豊かさは、肉体言語的なものを排除しかねない。野球の言語は、そのように傾くことを「野性のカン」によって拒否し続けない限り、社会的な色を帯びる。野球人たちをサラリーマンに置き換え、その悲哀を綴ったという記者・近藤唯之のあり様が紹介され、これはこれで興味深かった。サラリーマン社会のあり様を記者が知っている以上、野球選手たちをそれに重ねるならば「取材なんかしなくたって書けて」しまうだろう。我々はスポーツに、サラリーマン社会とは違うものを求めているのだが、それに断念を与えるものを野球というものはどこか有している、ということか。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■