湊かなえの新連載「ユートピア」が掲載。特集も湊かなえ。「ユートピア」とは、ひどく湊かなえ的なタイトルであるように思う。
湊かなえは「場」の作家である。その場、その町、その共同体がどのように変化し、推移してゆくかを描く。主人公たちは、隣人たちとともに共同体の変化にさらされ、小突きまわされ、いずれはそれによって虚飾を剥ぎ取られるなどする。これはある意味で、少なくともその設定のあり様については、きわめて日本的な作家と言えそうだ。
近代小説の基本は、個の自我である。主人公の魅力も、また罪も、その個の自我から生じる。自我があるから、他者との関係性が派生する。愛情、憎しみも含めて、基本的にはすべて利害関係である。愛情関係は心的にプラスのやり取り、憎悪の関係は心的にマイナスのやり取りだ。各登場人物とは、主人公の心理的な取り引き相手である。そのような関係性が張り巡らされた「場」が、小説空間というものである。だから小説の柄(枚数)は、主人公がその人格や立場により、どれだけ多くの他者と関係を結べるかによって、ほぼ決まってくると言える。
しかしそれは明治以降、西洋から入ってきた近代小説の作法であり、日本における実際の人間関係構築のあり方とは、ややずれている。我々にとって人間関係とは、気がついたらそこにあるもの、好むと好まざるとにかかわらず、結ばされているものだ。もちろん欧米にだって、我慢すべき隣人、気に入らない親戚はいるだろう。しかし彼らはそれら一つ一つの人間関係を、少なくともその時点において許容することを自ら選び取っている。まあ、そういうポーズはとる。
「ユートピア」というタイトルからも察せられる通り、湊かなえが個々の人間関係に先んじて設定する「場」は、必ずしもリアリティ溢れるものではない。ただ、そのような場に影響を受け、むしろ場によって初めて成立する個のあり様、その輪郭の不確かさと、それに反比例して強まってゆく場の磁力との関係については、なんとも言えない嫌なリアリティを感じる瞬間がある。
嫌な、というのは無論、誉め言葉である。なぜ嫌なのかと言うと、自分たちがそこから抜けられない、明治は遠くなり、戦中戦後を経て昭和が過去のものとなっても、我々のあり様が本質的に変わってないのではないか、と突き付けられるからである。しかしまず、小説はすべてが絵空事であってはならない。何か一点、リアリティのあるものを抱えていなくてはならないとすれば、それは価値のあることだ。
キリスト教文化において構築された近代小説が、しかし個の自我を出発点として構造化されるようになっているのは、あらかじめそこから抜ける方向性が用意されているからでもある。どのような小説でも、最後には自我は否定される。それが強烈な自我であればあるほど、ドラマチックな悲劇が構築され得るのだ。悲劇の果てにはカタルシスがある。
我々の悲劇とは、まさしくこのような悲劇を手にし得ないことにある。我々を規定する場とは、神ー自我のような対立構造を含まぬものであり、我々は卑小さを思い知らされることなく、最初から卑小なものとしてある。我々がどのようにして場から抜け、そしてどこへ行くのか。それは我々に固有の課題で、なおかつ世界に例を見ない難題である。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■