今月も、大変親切である。「家族の絆を問う衝撃のサスペンス」とか「警察小説の醍醐味」とか「心温まる物語」、あるいは「揺れ動く女心」と、前もってレジュメされているので、安心して読める。もしくは読む気を失う。しかしそれは同じことかもしれない。小説を読む、ということは常同性のもの、つまりは暇つぶしである。だからくだらないと言っているわけではなくて、そういうものだと知っているということが成熟した読み手である、かも。
成長とか進化とか、読むことによって何かを得ようとすることは、もちろん悪くはない。仕事で必要があって読むプロの書き手などは皆、書くという目的があって読んでいるようだ。しかしその結果としての、目的とされている書くことそのものに、では目的や得るものがあるかと問われれば、それはないと答えるんじゃないか。読むことも書くことも、それを本当に必要としている者にとっては呼吸のようなもので、生きていることに何の得るものがあるか、と問うに等しいだろう。
だから「心温まる物語」でも「揺れ動く女心」でも、いいのだ。読者はその「温ま」り方が一通りではないこと、キャッチフレーズに沿いながら、どこか裏切り、微妙にぶれていることを予感し、期待する。また「女心」だろうと「男心」だろうと、心である以上は「揺れ動く」のは当然だ。これは心理小説の要素がありますよ、というメッセージに過ぎないことを知るのが常連読者というものだ。
そしてこの時代に、羨むべきは多少であれ、常連と呼べる読者を抱えていること。一見さんの集積をもって、その数を誇るのが作法となっているネット時代だが、その情報化社会にそんな雑な評価しかできないのは、恥じるべきじゃないか。
などと考えつつ、ページを繰る手がつい止まるのは、四コマ漫画や、山田マチの100字のエッセイ、あまり意図のわからない一ページの風刺らしきイラストなど。手が止まるのは、まさに意図がわからないからだ。
確信犯的な型通りのキャッチフレーズは、そうなると、それほどの批判意識を持ってのことではないらしい。もちろん、いわゆる大衆小説誌に “ それほどの批判意識 ” があってしかるべきかどうか、ということはある。ただ、もし時代の有り様と雑誌との接点が明確なら、それは四コマ漫画や巻頭100字エッセイといったものに一番よく表れるのではないか、と思う。
連載小説も読み切り小説も、雑誌のお仕着せのぎょっとするようなキャッチフレーズを被せられていたとしても、作家は一貫して自身の作品だという意識を持っているだろう。そこがキャッチフレーズからのずれやぶれとして読めるわけだ。が、四コマ漫画、一ページイラスト、巻頭エッセイはその雑誌のその号のために書かれる。雑誌の書き手は皆、その雑誌の性質やニーズをよく感知しているが、それらの記事は特に雑誌の有り様そのものを示すことがアイデンティティであり、使命である。
言い換えれば、それらは編集部と書き手の作るカルチャー、また自誌をも相対化する知性そのものでもある。そこの狙いが見えないのは、つくづく難しい時代であることが表現されている、ということだろう。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■