集団:歩行訓練『ゲームの終わり』
原作:サミュエル・ベケット(仏版Fin de Partie 英版Endgame)
演出:谷竜一
鑑賞日:2013年10月21日(19:30の回)
於:KAIKA内「コックピット」
出演:
クロヴ 人見彰
ハム 中村洋介
ネル 古賀菜々絵
ナッグ 岡崎健斗
演出助手 山口晋之介
制作 畑田珠希
協力 スタジオイマイチ
京都の小劇場KAIKAで3週間に渡る舞台芸術イベント「岩戸山のコックピット」が開催され、10団体以上が可搬型劇場「コックピット」(限定50席)を使って公演を行った。コックピットとは「巨大人型ロボット」の「その原寸大の操縦室がそのまま「舞台」になって、さらに客席も一体となった」作りの劇場で、観客は操縦室内に搭乗することで普通の観劇体験よりも外連味あふれる非日常性を味わう。入場前は控え室に通され、座席へは乗組員の一人として案内される。テーマパークのアトラクションの没入感に近い。(この劇場で定期的に公演を行っている劇団衛星のHPに詳細がある)集団:歩行訓練の公演は土日で3回。各回50人限定、満員でも150人のための上演である。
上演にあたり、演出の谷竜一は当日のパンフレットにコメントを載せ、「この作品は、三つの要素にその時間を支配されている。私の故郷である福井県大飯郡高浜町の映像、コックピットという舞台装置、そしてサミュエル・ベケットの『勝負の終わり』という戯曲」と作品の構造を解説した。さらに、着席した観客の前に立つと、これから行われる上演と舞台上に流れる映像は強いて関係しているものではないと強調する。故郷の映像はコックピットの窓にあたるスクリーンに投影される。田舎の夏休みのような風景を映しながら、少しずつ原発らしい建物のほうに近づいていく。建物が遠景に確認できるところまできて、足が止まる。「原発が見えるところ」それが高浜町の所在なのかもしれない。町は高浜原子力発電所を有し、大飯原子力発電所も目と鼻の先にある。もしも将来福島と同規模の事故に見舞われれば、町は避難区域に指定され、無人となるのだろう。
終演後、観客は無言で退場し、戸惑っていたようだった。難解な原作テクストへの戸惑いもあるだろうけれど、劇団が選択した上演方法に対するところも大きいだろう。上記の映像演出に加え、台詞の大部分を占めるハムとクロヴの対話は棒読みに徹している。ハムはサングラスで、クロヴは長い前髪で(これは戯曲のト書きにはない)、主役二人の目線が隠れてしまっているのも、発話の無機質な質感を際立たせる。観客の目線と彼等の目線が出会う瞬間は劇中に数度しかないが、数度はそれがあるのだから、彼等の見ている世界は観客のそれと完全に断絶していない。だからこそ安定を欠く。世界の不明瞭さ。視界の不明瞭さ。なにしろ彼等は目が悪い。
舞台となる部屋の主人ハム、ハムに侍従して世話をするクロヴ、そしてハムの父親ナッグとそのパートナーであるネル、四人の登場人物はそれぞれに身体のままならなさを抱えている。四人とも総じて目が悪い。ハムは重度の白内障を患う盲人。それぞれドラム缶に押し込められているナッグとネルは、間近に見合わせるお互いの顔がぼんやりするほど視力が落ちている。劇中もっとも目を酷使するクロヴでさえ目が悪い。四人は総じて足も悪い。ハムは車付きの椅子から立ち上がれない。ナッグとネルは臑から下を失くした思い出で談笑する。クロヴの歩き方はぎくしゃくしていて、座ることができず、舞台を行ったり来たりする以上に遠くへは行けないという。四人は舞台を離れられない。開演前から舞台上に居て、終演後も舞台上で観客の退場を見送る。反面、観客はたいてい俳優の表情を識別できる程度には目がいい。劇場に通えるほどには健脚だ。
同じ劇場空間を収めながらもズレている舞台上の四人の視界と観客の視界がある。観客の視界は明瞭すぎて、「見る」ことに一切の遅延がない。しかし、たとえばハムとクロヴの場合、盲目のハムに用を命じられると、クロヴはその実行や完了を言葉で報告しなければならない。そうしなければ、ハムの盲目の視界に、クロヴの行為が反映されないためだ。
ハム 望遠鏡で見てみろ。
クロヴ 望遠鏡を取りに行こう。
クロヴ、出て行く。
ハム 望遠鏡なんかいらない!
クロヴ、望遠鏡を片手に、出て来る。
クロヴ 戻ってきました、望遠鏡を持って。
(『ベケット戯曲全集 2』安藤信也・高橋康也訳 p.39)
クロヴが望遠鏡でのぞく窓外の風景も、観客の視界とは異なっている。
(…)(脚立にのぼり、望遠鏡を外に向ける。)見えますものは、と……(望遠鏡を動かし、眺めわたす。)ゼロ……(眺める)……ゼロ……(眺める)……そして、ゼロ。(望遠鏡を下げて、ハムの方を振り返る。)どうだい? 安心したかい?
(『ベケット戯曲全集 2』p.40)
窓には高浜町の映像が流れている。町はまだ無人ではない。
福井県大飯郡高浜町の映像、コックピットという舞台装置、戯曲『勝負の終わり』という三つの時空間が、平行して上演空間に存在している。舞台装置は観客の明瞭な視界の中に、戯曲の世界は登場人物のぼんやりとした視界の重なる領域に、そして映像は、舞台装置とともに観客の視界に収まりつつ、関係の曖昧なものとして見られ、あるいは見られない。目の焦点の合わないときに左右にぶれる二重の虚像のように、<見る/見ない>の二重の視界が焦点の安定を求めてさまよう。谷はその焦点を注意深く取り除く。観客は三種の時空間で受容した<テクスト>をたよりに焦点なき視界に迷い込む。劇中の登場人物たちの視界だ。彼等の繰り広げる<筋>を欠いた対話の世界でもある。
こうした演劇的試みははじめてではないだろう。集団:歩行訓練は『不変の価値』という作品で貨幣を<テクスト>に見立てた実験を行ったと筆者は以前に論じたが、そこで問われていたのは観客と俳優の間で構築される演劇の<テクスト>であった。観客が貨幣を支払って観客に演出をつける。これは金銭の授受であると同時に、<演劇テクスト>の授受でもあった。観客が見ようとするものと、俳優が見せようとするものの一致点を探る擦り合わせ(コン=テクストの形成)を演出一回につき支払われる貨幣によって目に見える形で示した。発話のための<テクスト>はその全文が舞台上に投影されていた。
目に見える<テクスト>は、本作では趣向を変えて存在している。それはハムとクロヴの著しい棒<読み>が暗示する<台本>の存在感である。一方で、上演台本の構成については、安藤信也・高橋康也訳『勝負の終わり』をベースに岡室美奈子訳『エンドゲーム』やベケット自身による英語版Endgameを参照しながら適時再訳出したと、事前に明示している。
問いは再び我々の演劇受容における<コン=テクスト>の形成に向けられる。それも挑発的な実験に突入している。観客の眼前には異なる三種の時空間という<テクスト>がある。三種のうち、原発を遠景に捉えた高浜町の映像は、2013年の日本の観客に共有される最もアクチュアルな背景である。コックピットは最もフィクショナルな空間として観客をすでに接収している。挑発は続く。三種の時空間は無関係を装いつつ端々で対応している。例えば『勝負の終わり』にちりばめられたメタシアトリカルな台詞の数々は、観客を現実の舞台に引き戻す。
クロヴ (脚立から降り、望遠鏡を拾い、調べてみて、先を客席に向ける。)
見えるね……気違いの群れが。
(『ベケット戯曲全集 2』p.40)
ゼロ、ゼロと強調される窓外の風景は、原発の近隣地域の抱える一つの暗い可能性を予言する。また、俳優の演技にも本当らしさが覗くことがある。ハムの絶え間ない要求にクロヴが激高するとき、観客はたしかにクロヴの生の声を聞く。こうした一瞬一瞬の関係性を丸ごと受容して、観客の視界が揺さぶられる。あるときには明晰に、あるときにはぼんやりとする。
カメラのピントが被写体を選ぶように、<見る>には<見ない>が含まれている。本作のように焦点を明らかにしない作品を前にして、観客は<見る>楽しみのうちに<見ない>暴力を振るっていることに気づくだろう。観劇体験のうちには必ず潜んでいるこの暴力も、普段はあまり気にしない。たいてい演劇の作り手、戯曲の解釈者がその仕事を引き受けているからだ。彼らが焦点を用意する。観客席はその焦点に合うように組まれている。
これは行き当たりの思いつきではない。戯曲の性質から生まれる結果として、こうした上演は十分に考えられる。『勝負の終わり』は円環構造である。幕が上がると、舞台中央にハムが座し、敷布をかぶっている。クロヴが敷布を取ると、血痕のついたハンカチを顔に広げている。終幕に至り、クロヴの去った舞台に一人残ったハムは、最後の台詞を言い終えると、ハンカチを再び広げて顔に近づける。戯曲のト書きは「近づける」で終わっているが、本作ではハムはハンカチを顔に広げて、登場時の姿に戻る。また、戯曲では去ったままのはずのクロヴも本作では再登場する。ネルとナッグにいたっては、開演前から観客の退場時までずっとドラム缶の中である。つまり本作はそのまま再演可能である。
いまだ訪れない終末のリハーサルという『勝負の終わり』の一側面が、本作の演出を成立させるのである。”Endgame”という戯曲のタイトルがチェスの「詰め」を指す言葉から取られているということはよく知られているところだが、チェスには「エンドゲーム・スタディ」という詰め将棋によく似たゲームがある。本作のタイトル『ゲームの終わり』とは、あるいはこれを指すものではないか。一局の終わりは二局目のはじまりだ。舞台上の四人は静止したまま観客の退場を見送り、再演を待つ。次のゲームも、定められた手数としての台詞を消耗し尽くして終わるだろう。しかし問題の条件が違えば解答までの手順も違ってくる。本作を、そのような問題の一つとして提示された、尽きないリハーサルとしてのベケット劇上演と位置づけることは可能だろう。
そして観客と暴力の問題について。本作はこれを再び実験した。観客は明晰な視界に固執しないよう釘を刺され、登場人物らと同じく不明瞭な視界に閉じ込められた。賛否はもとより折込み済だろう。簡明な解釈の上に構築された演劇は快い。その密度が高いほど賛辞の声が強まるのもわかる。しかしベケットの演劇は本来的に不快さを伴うものだろう。『ゴドーを待ちながら』が大受けを期した際、ベケットは演出家に「こんな大当たりになったのは、きっとよくないところがあったからに違いない。今度は気をつけよう」と言ったという(『ベケット戯曲全集 2』p.304)。その次回作というのが『勝負の終わり』である。
本作が生み出した観客の戸惑いは『勝負の終わり』の勝算のうちなのだろう。アメリカの批評家スタンリー・フィッシュは、<テクスト>の受容において一定の解釈を共有する<解釈共同体>が構築されると主張した。それは無限無節制に拡散しうる解釈の脱構築に一定の制限が働くことを指摘する一方、権威的解釈を肯定する。<解釈共同体>の快さの極致が劇場にある。見ず知らずの観客たちが一斉に割れんばかりの拍手を送るときがそうだ。すると、本作は解釈共同体の解体を期待したのか。いや、むしろこのような条件下でも共同体が再構築されるのを期待したのではないだろうか。原発という現在の日本の様々な<共同体>を強く左右する要素を背景に用意する根拠はそこにあると考えるからである。
一回の上演の観客はわずかに50人。コックピットの観客席は構造上、途中退場ができない。観客は舞台上の四人とほとんど同じ身体的条件を課せられている。乱視的な視界、動かない足で、一回のゲームに参加するのだ。エンドゲーム・スタディはすぐれた作ならば唯一解がある。しかし唯一解を証し立てるためには、それ以外の手が成り立たないことを確認しなければならない。『勝負の終わり』はいまだその確認作業中にある。本作もまだ3回しか。ベケット劇の不快さに我々はまだまだ付き合わなくてはならない。それは鎮痛剤を処方してもらえないハムの身体にも等しい。快い作品ではない。「解釈に欠ける」との批判も当然起こる。しかし本作においてベケットの戯曲はほとんど損なわれていない。
* 写真提供:集団:歩行訓練
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■