【公演情報】
第20回王子落語会 於 王子小劇場
鑑賞日 2013年12月16日
出演者
瀧川鯉昇
立川左談次
桂米紫
立川談奈
王子小劇場の落語会は平成19年から行われ、すでに恒例のイベントになった。今回高座に上った4人の噺家は、今年7月の第19回王子落語会『怪談二夜』の時も出演し、真夏の暑さへの対策として、鳥肌が立つような怪談噺を聞かせてくれた。怪談と言えば、聴き手をぞっとさせるような怖い噺のイメージなのだが、怪談らしい要素と滑稽の面白味が意外といい組み合わせになり得ると、この時筆者は始めて知り、思い出に残る寄席だった。
落語愛好者にはお馴染みの三味線と打楽器の音とともに、立川談奈氏が最初に高座に上った。「客席の年齢層が高くてよかった」という言葉で口火を切り、直に笑いを誘ったのだが、その言葉はネタでありながら、いかにも確かに事実を反映している。人間関係が徐々にバーチャルの世界に移りつつある中、SNSなどにあまり興味がなく、リアルな付き合いを大事にする高齢者の方が、落語の座へ足を運ぶ者の中で一番多い。(若い人は何を見逃しているかは知らない!と、この記事の筆者が相伴って言いたくなるのだが…)その後、笑うことの大事さは動物にも分かると言い立てて、本題の噺「元犬」を語り始めた。現実から上手に笑いの世界へ客の注目を導く氏の技量に感心せずにいられない。
次の席は瀧川鯉昇氏が務めた。客席に向ってお辞儀をしてから、しばらく観客を見渡すという独特の入り方で笑いを起こし、座を和やかにした。氏は今話題の富士山の世界遺産認定や2020年の東京オリンピックを噺のマクラにして、お得意ネタである『粗忽の釘』を語り始めた。江戸落語らしい言葉遊びや古典的な言葉が多く、時代錯誤による滑稽さを狙うのが瀧川氏のスタイルの一つの特徴だと言えるであろう。(余談になるのだが、筆者は言葉遊びが大好きで、「入ってく」と「ハイテク」のような言い掛けに特に弱いので、腹を抱えて笑ってしまった…)それに、ゆっくりで丁寧な話し方や細かくて伝わりやすい演じ方のおかげで、観客に心ゆくまで噺の面白さが味わえる。氏は今回二席を務め、トリの席では落ちに近付くと言葉の速さが増すとしても、客席が大笑いで盛り上がっているのに、最後までその心の余裕を示す姿勢が崩れないのは印象的だった。
三番目の席は立川左談次氏の務めで、落語においては弟子は師匠から芸を盗むのが一般であるというネタを使って観客の心をつかんだ。本題は季節に相応しい、北海道の寒さにまつわる噺で、大きな仕種や面白味に富んだ表現でその場の雰囲気を支配していた。古典に対して独自の姿勢を持ち、氏の噺を聞きながら、現代の言葉が落語の座に意外と合うのだと気付かされた(特に噺の流れの中で自然に現れた「~じゃん」言葉は筆者の心を踊らせた…)度々客席に声をかけて、物語と座の現実の間を行き来しながら「今ここに」いる客と一緒に噺を展開させるのが氏の独特の技。そのおかげで噺の最後まで座中で面白い緊張感が漂った。
中入りの後、桂米紫氏が上方落語の代表として登場した。客席の暖かい歓迎からみると、東京では桂氏のファンが多いようだ。大阪と東京の違いをマクラにし、「笑いのメッカ」である大阪では客は噺家よりもよく喋るという(これは本当なのだろうか?!言われてみると、噂は聞いているけど…)。さすが上方落語家と言えるぐらい言葉回しが早く、にぎやかな話し方を発揮した。本題に入ると関西弁のスイッチが入り、客席はまさにそれを待っていたかのように大笑いで反応した。驚いたことに本題は大晦日にまつわる怪談噺『除夜の雪』で、やはり人情の要素もあり、滑稽さと不思議の要素もある噺が氏の得意技であろう。(夏の会に語られた『皿屋敷』も忘れがたい!)役に完全に吸い込まれるような演じ方を見せ、師匠たちに負けない熱意が感じられた。
一寄席で江戸落語と上方落語を聴くという贅沢の上、各噺には個性があって、新鮮さにあふれる構成だった。それにしても、観客を一番喜ばせたのは、出演者がさりげなくお互いを噺のネタにしていた場面だったに違いない。そのかみ合いにはユーモアに包まれたライバル感と共に相互敬意が感じ取れて、観客はやはりどんな空想噺よりも現実に基づいたネタに関心が行くのだと見えてきた。
観客といえば、中入りの時ちらっと客席を見てみると、この会に馴染んでいる方が大勢で、腰の痛みにも、風邪の流行にも負けず、目当ての噺家を見に来て、明るい表情で落語を楽しんでいることが見えた。結局のところ、落語の座が成り立つには聴衆の存在が必要不可欠である。聴き手が想像力と遊び心を生かしてその噺の展開に参加するのが落語に欠かせない要素であって、観客の存在はどの芸能よりも大きな役割を果す。
喜劇的なる他の伝統芸能に比べ、落語の特徴がどこにあるかを考えると、やはり話芸であることがこの芸の真髄と言える。例えば、舞台上で二人以上の登場人を立たせ、観客の目の前で物語を展開させる狂言と違って、落語は噺家の言葉だけで観客の想像力に訴え、あたかも聴き手を悪戯の共謀者になってもらおうとしている。幻想や神話のフィルターを通して現実を見るのではなく、ユーモアや皮肉を武器にして現実と対面するのが基本の姿勢だ。確かに、笑いを誘う噺はまじめぶっている噺よりずっと現実に忠実なのではないだろうか。本当のことを言うのが難しい時、真面目に事実を語るより笑いながら本当のことを言う方が楽なのだ。つまり、一時期的に現実から逃げ場を作ることよりも、落語のユーモアは現実に対する姿勢となるのだ。かと言って、誰でも噺家になれるわけではない。名人の技量になかなか及ばないので、聴き手はその技に頭を下げ、毎回寄席に行く時は驚かされるのを期待している。
人生に対する姿勢としての「笑い」について考えながら、「面白い」という言葉の由来を思い出した。笑うことによって、人の顔が明るくなるので、それで「面白い」。年が変わろうとしている今この頃には、王子落語会で笑いで積極的に福を誘うのはいかにも嬉しい機会だった。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■