© Aki Tanaka 『東海道四谷怪談―通し上演―』 第1幕
【公演情報】
フェスティヴァル/トーキョー 2013参加作品
上演期間 2013年11月21日-24日 於 あうるすぽっと劇場
鑑賞日 11月22日
作 鶴屋南北
監修・捕綴 木ノ下裕一
演出 杉原邦生
[出演]
民谷伊右衛門 亀島一徳
お岩 黒岩三佳
直助権兵衛 飯塚克之
お袖 細野今日子
佐藤与茂七 田中佑弥
伊藤喜兵衛 舘光三
喜兵衛孫娘 お梅∕小平女房 お花 田中美希恵
医者 尾扇∕仏孫兵衛 竹居正武
伊藤家乳母 お槇 蘭妖子
按摩宅悦∕庵主浄念 高橋義和
宅悦女房 お色∕小塩田又之丞 高山のえみ
地獄宿の女 お大∕伊藤家後家 お弓 乗田夏子
小仏小平∕小平息子 次郎吉 森田真和
四谷左門∕利倉屋茂助 日高啓介
秋山長兵衛 後藤剛範
関口官蔵 四宮章吾
茶店女房 お政∕伊右衛門の母 お熊 峯岸のり子
奥田圧三郎∕米屋長蔵 岩谷優志
中間伴助 木山廉彬
薬売り藤八∕赤垣伝蔵 森一生
木ノ下歌舞伎の『東海道四谷怪談―通し上演―』の開演前、観客が最初に目にするのは、歌舞伎の三色の幕を連想させるデザインをした舞台。それを土台にして今回の上演が行われるということだ。その舞台は傾斜していて、これからそこに現れる登場人物が転ぶのではないかと思えてしまう。江戸時代末期のあらゆる混乱を反映している『四谷怪談』の内容を考えると、その「上下」の視覚化は演出上の工夫として意図的だったと分かる。貧しさと裕福の並存、上下関係における義理、敵討ち、裏切り、売春といった社会の歯車に巻き込まれて、波乱に満ちた生活を送る町人たち。その中の一人は、浪人になった民谷伊右衛門だ。悪行を繰り返し、彼のせいで残酷な死を迎えた後幽霊になった妻お岩の恨みに最後まで悩まされる。
今回の公演に出ている人物は、江戸時代風を上手に取り入れながらほぼ現代の洋服を着て、古語と現代語を行き来する江戸時代を匂わせる言葉で話している。俳優は時として見得を切ったり、いかにも現代的であるその姿は歌舞伎の様式的な動作を取ったりするのだが、観客にはそれが現代のダンスに見えるので、違和感がない。
歌舞伎公演の独特の雰囲気を作り上げる下座音楽は巧みに現代のサウンドに入れ替えられた。太鼓の代りに危険の接近を暗示させるようなヘリコプターの騒音、三味線の代りにテクノのリズムやギターディストーション、長唄の独吟の代りに今時のラップなどがこの作品の背景音楽になる。年齢を問わず現代の観客はこのような音に馴染んでいるはずで、そのリズムに乗って物語の展開を楽しみにしながら、視覚的にも聴覚的にも刺激的な6時間を過ごす。
木ノ下裕一が主宰する演劇団体木ノ下歌舞伎が鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の上演に挑むのは初めてではない。2006年の『yotsuya-kaidan』という題目の抜粋上演はこの団体の旗揚げ公演だった。この作品を全体的に上演するのは、昨年のフェスティヴァル/ト-キョ-に参加した時が初めてで、挑戦の多い試みだった。歌舞伎の舞台でも『四谷怪談』の通し狂言の話になると、『忠臣蔵』の世界を背景にしていることが問題になるので、二日間にかけて『忠臣蔵』と『四谷怪談』を平行に上演するか、部分的に上演するという選択肢しかない。いうまでもなく、後者の方が普通なので、『四谷怪談』の見どころとなる有名な場面、例えば「髪すきの場」や「隠亡堀の場」だけがよく上演される。
© Aki Tanaka 『東海道四谷怪談―通し上演―』 第1幕
『東海道四谷怪談』を怪談劇の代表作にしたのは、歌舞伎芝居ならではの仕掛けの採用によって何回も登場するお岩のお化けなのだ。江戸時代から絶えず広がった都市伝説がお岩の肖像を大きくふくらませ、彼女の怨霊に対する恐怖がフィクションの枠を超える。『四谷怪談』の公演に当り、上演中の事故などをさけるために歌舞伎役者の座はみんなでお岩稲荷神社へとお参りする習慣がある。それくらいお岩さまの祟りが怖いわけだ。
もう少し歌舞伎の話を進めると、初演の時(1825年)からお岩の役と小平(伊右衛門の従者)の役を同じ役者が演じる決まりがある。そのため、有名な「戸板返し」の場面で二人の亡霊が同時に出ることができる。ところが同じ役者が与茂七(伊右衛門の対敵)の役もこなしていた。ということで、最後に与茂七と伊右衛門の切り合いの時、お岩を演じた役者が今回与茂七として伊右衛門と争うので、それはお岩の復讐だと解釈されるのが一般的だった。『東海道四谷怪談』上演年表によると、1883年に初めてお岩・小平役と与茂七役は別々の人に演じられるようになり、それ以来はこの習慣が続いている。ちなみに、歌舞伎のスター役者重視の演出(いわゆるスターシステム)はどの程度に及ぶかというと、早い段階から一人の優れた役者に舞台の花を持たせるために、お岩兼小平兼与茂七兼伊右衛門(!)の役を一人の役者が演じる極端な芝居も度々あった。概していえば、演出上に色々な細かい工夫があったところから伝統歌舞伎の底深い面白さがうかがえる。
一方、歌舞伎はスペクタクル性を重んじ、原作の詞章から離れるのが常である。脱台本への傾向は付き物であって、それが各上演の「個性」につながるのだ。例えば菊五郎のお岩さまと勘三郎のお岩さまはどういう風に違っていたか、という話題で歌舞伎のファンが盛り上がるのだ。
木ノ下歌舞伎が試みたのは原作により近い上演だった。コンセプトを担当した木ノ下裕一は『四谷怪談』の立作者である鶴屋南北自身に話を聞こうとしているようなのだ。どのような思いをこめてこの作品を作ったかという問いかけを前提とし、現代にまで及ぶ普遍的なものをこの作品から取り出そうとした。結果として、現実味を帯びる群衆劇が成立した。お化けのぞっとする出現が少ない反面、原作に忠実でありながら、今を生きる私たちに共感できる人情を持つ人物の葛藤を見せてくれた。
© Aki Tanaka 『東海道四谷怪談―通し上演―』 第2幕
例えば、『四谷怪談』の主役となる伊右衛門は基本的にとにかくかっこよく演じなければならない。歌舞伎役者の芸談によると、悪役として扱われる。お岩に真剣にほれているに違いないが、毒薬によって崩れた彼女の顔を見た瞬間に、追い出そうとしている。亀島一徳が演じた役は原作の描く矛盾に溢れる性格を持つ伊右衛門像によく合っている。プライド高く、従者に対して厳しい浪人の振る舞いを見せるのだが、生まれたばかりの子どもが彼にそっくりだと言われると、または取っておきの羽織(ここはおしゃれなレザージャケット)を妻お岩にもらうと、少し照れながら嬉しそうに見えた。それでも、伊藤の家から帰る時、顔の崩れたお岩に会うと、彼を元々の悪い性格へと戻す絶望に陥る。特にこの役に関しては、現代の視点からみると合理的な役作りを探らない方がいいかもしれない。その理由は、伊右衛門という存在は作品全体から、全ての登場人物の行動に支えられて成り立つからである。いうまでもなく、これは通し上演でしか見えてこない事柄なのだ。
お岩の場合、元々は立ち役(男性による男役)が演じる役であって、小平役との掛け持ちや後半に幽霊として出現したりすることから見るとかなりの体力を求める役なので、世を知らない可愛い系の娘のような役柄はまず論外だ。そこで黒岩三佳が演じたお岩はやはりたくましくて、しっかりしている女性だ。変えられない運命を迎えることに対して心構えしているようなその声が特に印象に残った。ちなみに、歌舞伎の舞台だったら、立ち役が女性の声を真似しているので、仕方なく通常より高くて、悲劇性は得られない。幽霊になってからのお岩の方が人気を集めている一つの理由は、そこにもあるかもしれない。
ここで主役のみを例として上げてみたのだが、出演した全員の演技力が抜群で、掛け持ち役が多かったにもかかわらず、一人一人素晴らしい演技を見せてくれた。かっこよさを極めた与茂七を演じた田中佑弥、男女二役を担当した高山のえみ、小平・次郎吉・(鷹)の役を担当した森田真和、そして大変印象深いお槇を演じた蘭妖子もここで言及したい。挑戦の多い舞台なのに皆さんが楽しそうに演じたので、南北作品に込められている面白さが充分に伝わってきた。
『四谷怪談』の現代化は新劇にも試みられたが、木ノ下歌舞伎の『東海道四谷怪談』はどうして現代歌舞伎と呼べるかについてここで少し考えてみたい。爆音のテクノをBGMにして、スニーカーを履いて、黄色いズボンにパーカー(またはレザージャケット)姿の伊右衛門が刃物を握って、見得を切りながら敵と戦っているのだが、その姿に観客は違和感を感じないのはどうしてだろう?歌舞伎の真髄といえばやはりそのリズムや緊張感に満ちたスペクタクル性自体であって、観客を驚かせる、感動させる芸術の誇示なのだ。
© Aki Tanaka 『東海道四谷怪談―通し上演―』 第3幕
南北の台本を現代歌舞伎として成り立たせる企画の後ろに、ここ数年古典の現代化の試みで知られてきた木ノ下裕一がいる。自分を原作主義者だと表明し、歌舞伎の台本に宿る可能性を徹底的に探検する彼の作業が公演のベースになる。一つの演目を成立させるだけのつもりではなく、これから歌舞伎戯曲の演出に挑むアーティストが参考にできるコンセプトを残したいという理論家の気質に加わるのは、彼の歌舞伎に対する情熱なのだ。
作品の演出を務めた杉原邦生は、物事を原点から考える習慣があるようで、その手法にはまず先入観のようなものがない。特に舞台のコンセプトに対して誠実であることを大切にしているので、その誠実さを示す一例を挙げよう。「髪すきの場」では元々立唄の独吟が流れるべきだというト書きがあって、そこに今流行のラップのバラードを入れた。お岩が夫の伊右衛門に出会った時の気持ちを振り返って、裏切られた悲しみを伝える歌詞を背景に、彼女の体がばらばらに崩れるのだ。その曲との組み合わせは残酷で印象的な場面を作り上げるので、これは傑出した思い付きだった。
江戸時代の状況を反映している戯曲を現代に移して上演してみようとなると、やはり鶴屋南北と同じように自分が生きている社会の風潮を読み解いて、原作に潜んでいる眼識を私たちの今と結びつけないといけない。現代社会が抱えている問題をほのめかしながら、古典の本質を見直す木ノ下歌舞伎の『東海道四谷怪談』はその意味で、台本処理の面でも、演出の面でも、現代に呼びかけているようだ。元々この戯曲に新鮮さや、色々な演出方法に適応できる柔軟性があり、それを再検討し、さらけ出すのが今回の上演の意図だったであろう。この姿勢は実は、昨年のフェスティヴァル∕ト-キョ-全体のテーマに直接つながる。多様性や多面性に溢れる物語の場合、一つの論に制限されること、または色々な声が無理矢理一つに絞られることは、もったいないだけではなく、残念だし、危険だというメッセージが込められているようだった。
新しいものを作り出そうとしても、その作品が現代を生きている人の心に響かないといけない。見ている側の心に「響き」を起すような作品を作るために、ある意味で時代を読み解く力が必要なのだ。そして観客の心へ届くと同時に、自分に対して誠実でいられるのを目ざすことの苦労は、おそらく作り手にしか分からないのだ。
歌舞伎に限らず、伝統芸能は元から観客の好みに敏感だが、特に歌舞伎の舞台は観客重視だとよく知られている。観客を面白がらせる、驚かせるためにいつも新しい舞台効果を目指して、舞台の仕掛けや演技を常に進化させる。台本の内容を犠牲にしても、とにかく観客に最高の感動や楽しみを与えるのが、歌舞伎の根源的な姿勢なのだ。
鶴屋南北の台本に込められた現実味へのこだわりと、現代の観客の心に響く面白さとのバランスを目ざしたのは今回の木ノ下歌舞伎による『東海道四谷怪談』の通し上演だった。上出来だったことの証しとして、最後の場面で見られる切り合いの時に観客席から掛け声が上った。そもそも掛け声は、上手な演技に感動した歌舞伎観客が役者を褒め上げる気持ちの表現であって、この上演の開幕の時も聞こえたので、歌舞伎ファンまでも納得させるような見事な上演だったといえる。
ラモーナ ツァラヌ
* 写真はフェスティバル/トーキョー様提供。© Aki Tanaka。
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