百年後にも残っていることを前提に、芥川賞作家の作品10のリストを作る座談会が行われている。百年後にどういう形で残っているのかとか、芥川賞作家に限定することの意味とか、そういったところに突っ込んでもいいし、それは純文学プロパーとして結構、真面目に捉えました、ということになるだろう。
が、それが文學界でも新潮でもない、三田文学だというところで、当該の座談会を眺める視線は百年後でも、芥川賞でもなく、「リストにする」というそのことに向かってしまう。
この「リスト化する」というのは、文芸誌ではネタに困ったときにはよくやる。「リスト化する過程をもって特集とする」というのは、そのリストを作ることそのものに、時事性も必然性もないとき、よくやる。ああでもないこうでもないと、議論が起こっているように見えれば、その場その時かぎりでの時事性があるかのごとく錯覚させる。
ただ、特に三田文学という雑誌と、リストというのは、時事性など抜きに、常時切っても切れない感じが漂う。大学雑誌であり、文學界から引き継いだ同人誌評により全国の同人誌を緩く束ねているのもあり、書き手にしても読者にしても、「顔の見える」付き合いをしているのが窺えるからだ。「顔の見える」誰彼との、濃い、あるいは薄い関係性は、「アドレス帳」というリストによって管理されるものだ。
三田文学でしばしば目に入る「リスト」は、この同人誌評のときの注目作品の羅列リストのほか、執筆者一覧のリスト、編集人と発行人の二人の名が並んだものなどがある。編集人と発行人は、ずーっと長い間、同じ名前で、編集人は編集プロパーとしてしか認知できない名前となっている。それは名のある詩人や編集者が、短い期間の持ち回りで編集長を務めるという三田の伝統にはなかったことだ。
「編集者とはアドレス帳のことである」という言葉もあるが、自分で執筆するわけではない編集者にとって、そのアイデンティティは「電話をかけられる相手のリスト」になるだろう。編集人が固定化すれば、アドレス帳も固定化し、なおかつ肥大化する。
三田文学の特徴としてはもちろん、慶応義塾との関係があるわけで、これは執筆者一覧にときどき「慶応義塾大学○○学部卒業」とあることで思い出させられる。しかしこのリスト、いかにも徹底せずに中途半端、それによって不正確な感が否めない。まず慶応卒の書き手に、もれなく「慶応卒」の記述があると思っていいのかどうか、はっきりしない。もし慶応卒でありながら「慶応卒」の但し書きがないとすれば、そのような由々しき事態がなぜ起こるのか。本人が希望して「慶応卒」の表記を外すということがあり得るのか、慶応にとって、それはおよそ正気と思えぬ希望ではないのか…。
この「顔の見える」村である三田での、百年後を思うリスト作りでも、町内会の名簿を眺めつつ、ご近所同士の事情らしきものが透けて見えるような、ときに奥歯にものが挟まったような物言いを、そのままテープ起こししてしまう麗しさがある。美しき村、とはしかし純文学業界そのもので、三田はそれを無防備にかいま見せてくれているのだろう。
池田浩
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