「短編で読む『人生の交差点』」という特集である。これで短編小説というジャンルの掟を、あらためて考えることとなった。
純文学における短編小説とは、確かにある瞬間を切り取ったものではあるが、そもそも「人生」という起承転結的な発想を欠いていると思われる。その一瞬に凝縮しているのは、心理であったり、文体であったり、あるいは「生」なり「性」なり、もしくは「彼岸」なりといった観念である。「人生」という長編小説的なるものの一部がたまたま切り取られたものを短編小説とする、という定義は聞かないが、あえてそういう観点で捉えるようという特集なのだろう。
実際、「短編で読む」とあるのに、特集には連載すなわち長編とかシリーズの今回分も含まれていて、やや面食らう。特集への依頼をサボったようにも見えるからで、誌面は結構、妙である。
ただ、私たちもいつの間にか文芸誌の制度、小説ジャンルの制度に慣らされているところがなきにしもあらずだ。特集は連載とは別に依頼し、特集ページは完結していなくてはならないとか、そんな決まりはないっちゃない。今、連載している面子をじーっと眺め渡して、特集企画として目次を組み替える、というのも悪くはない。いくらなんでも毎号、そんなわけにいかないが。さらには連載が完結した長編はこの扱い、短編はこういう扱いというところから、長編小説はこう、短編小説はこうと、漠然と定義されていってしまう。
短編を「人生の交差点」として読むということは、すなわち短編小説を長編小説のきっかけ、もしくは大きなプロットの流れの重要なポイントとして考えるということだ。つまりは前後に物語の広がりを感じつつ、しかし短編小説というからには、それだけである完結を見なくてはならない。
これは存外にというか、当然にというか、非常に矛盾したことで、つまりはかなり難しい。そしてそういう試みは、あまり為されてこなかった。ということは、それが意味がないからで、では要請される「意味」とは何ぞやと言えば、所詮は文芸誌の制度の都合であったりする。
広がりながら完結する、ひとつの方法としては、広がるものと完結するものの審級を違えることである。たとえば広がるものは歴史の大きな流れ、完結するのは登場人物一人一人のその一瞬で、後はその人物はいっさい出てこない、というやり方だ。これはかなり安定して書けるはずで、この歴史の広がりをポピュラーなものとすれば、登場人物の心理やその切り取り方は相当に実験的であっても読めるものとなる。
矛盾して難しいはずの試みについて、すぐさま上手いやり方で落とし所を見出すのが「よい作家」なのかもしれない。が、そこで矛盾に引き裂かれてみせる、とてつもない失敗をしでかしてみせることこそ「才能」かもしれない。そして人に失敗する勇気を与えるものは、それを許す場であって、ちょっと失敗したように見える誌面だったりするのではないか。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■