写真の東川賞を受賞した初沢亜利と佐々木中との対談「このろくでもなく愛おしい世界で写真と言葉には何が切りとれるのか。」が、なかなか面白い。文学の言葉を見飽きた目には、写真家が語る言葉がいちいち新鮮に映るということかもしれないのだが。
実際、カメラにはカメラの手垢の付いた常套句というものがあるのだろう。そういった手つきで、その手つきだけで撮られた写真群で写真集一冊が出来上がる、つまり文脈があるようにみせることもできるのだ。その文脈は、見慣れぬ目にはプロらしく感心させられるもので、見慣れた目にはわかり切った合言葉として読める。事情は文学とまったく同じではないか。
オリジナリティの発露は、持って生まれた才能がそのままというより、まず第一段階としては、そういった常套句に倦み疲れることから始まる。つまりは、うんざりできる感受性こそが才能だ。そういった常套句に習熟することに、飽きもせず血道を上げられるというのは幸せな趣味に過ぎない。
初沢の写真家としてのキャリアもまた、自身の常套的な手つきに対する批判意識から始まっている。そして明け方の新宿でのさまざまな人々、カメラを一顧だにしなかったり、指名手配中だと言ってみたりから400人の姿態を撮影したという。それは一日の終わりと始まりが同居している時間であり、空間だった。
対談で初沢は、被災地で渡辺謙が行き過ぎた光景について語っている。被害にあい、家族を亡くした人々が、渡辺謙が歩いているのを見かけると「渡辺謙だ」と騒いだり、後を追ったりする。人間というのはそういうものではないか、と。
そういう言説は本来、文学こそが果たさなくてはならないものではなかったか。陳腐な常套句やステレオタイプの思い込みに足払いを喰らわせ、忌憚なく真実に迫る胆力こそ、文学者気質というものだった。それが他のジャンルの創作者に取って代わられ、その言葉を拝聴して無頼だなどと感心する。文学者から見た写真家が無頼なら、それは文学者がカメラほどにも真実の直視に堪えられなくなっているのだ。
実際、今の文学者志望の気質は、写真家どころか一般のサラリーマンと比べても、事実関係の認識把握能力が劣っていると思われる場合がしばしばだ。もちろん、昔から文学青年といえば、現実逃避傾向とは切っても切れないように思われてはきた。しかし、そういった連中が文学者として一本立ちすることは、今も昔も絶対にない。
問題なのは、文学者として持つべき熾烈な現実認識能力の基準が下がり、またあやふやになってきたことだ。初沢が受賞した「隣人。北緯38度線の上」に擬えて言えば、認識の38度線を越えることなど夢にも思わず、その状況の評価をテレビから流れるコメンテーターの常套句に任せきりにして平気でいる。それが今の文学界という趣味人の集積だ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■