「SF 特集 未来に気をつけろ」とのことである。未来の何に気をつけねばならないのか、しかとはわからないが、見出しや惹句はたいへん面白そうに見受けられる三作が並んでいた。さて見出しほどは面白くなく、期待外れだったかどうかというのは読者それぞれの判断だが、何というかこの、ハリウッド映画の予告編ばりに突出した感じで惹句が作れる、というところに「気をつけ」たい。
瀬名秀明の「瞬きよりも速く」は、サイコパスが一瞬で獲物を見わける、という一つの命題が惹句であり、始まりである。小説としてはともかく、動物的な俊敏さ、もたもたした人知と無縁の本能について描く、と思われる姿勢が非常にシャープな印象で読者の気を惹く。
そして SF に通じた読者の野性の嗅覚に訴えるのは、秀れた SF 小説には多くの場合に「未来の人間」として「原始的、あるいは原初的な人間」が描かれているということだ。このとき SF とは人間の初源の姿を探るための実験場で、「未来」とは現在の社会の枠組みを外し、真っさらな条件を想定するための口実だ。
が、この作品におけるサイコパスという、社会的な枠組みへの共感や本質的な適合を欠いている存在は、現実にいる。したがってその原初性と未来性に気づかされるのは、SF 的というよりももう少しリアル寄りのところで実感を持つわけで、そのぶんスリリングな要素は加わる。映画の予告編も、編集しがいがある。
八杉将司の「私から見た世界」は、妻と子供だけが視界から消えるという架空の設定が SF ではあるが、これもまた現実と地続きであって、それだけ読む気をそそる。ふと思うと、この逆の設定なら、サスペンス小節に傑作がある。つまり実際にはいない妻子や恋人を、いるかのように錯覚し続けるというやつだ。パトリシア・ハイスミスにもあったし、ノーベル経済学賞をとった数学者の頭の中を描いた映画にも、確かそういうので、やたらとスリリングなのがあった。
それらはすべて精神的な病いとして、すなわちある強い欲望から生み出された人間の業の物語として描かれる。それに対して妻子だけが視界から消えるというのは、まあ病いと考えられないこともないが、やっぱり奇妙で、ちょっと笑ってしまう。
筒井康隆氏は日本を代表する SF 作家だが、その作品には、たとえば小説世界で五十音の一文字が消えるなど、きわめて言語的なものがしばしば含まれている。SF 的設定とは、人間の業が、それこそ自業自得的にもたらしたものではなく、天から突然降って湧いたように言語によって定義される。登場人物たちは、檻の中にいて突然ガスを浴びせられるモルモットのように右往左往するのだ。
つまりは SF とは「神がいる」文学なのであり、その意味でも究極的に西洋文学的だ。「天使」という概念を措定している宮内悠介「ムイシュキンの脳髄」は、この特集において、そのあたりのところを明確に示している、と読める。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■