時代小説と歴史小説とは、どう違うのだろうか。時代小説は、ある時代設定を舞台として、そこでの人の営みや心理を描くもので、その設定以外は基本的に現代小説と変わらない、という考え方もある。それに対して歴史小説は歴史上の実在の人物が出てくるもので、したがって否が応でもそれは決定的に過去の出来事として書かれるものだ、と。
たしかに着物を着てチョンマゲを結っているはずの人々が、戦後日本のファミリー像のようなものを形成し、親子の断絶に悩む、みたいなものを読まされることはある。しかしそれは単なる駄作と切って捨てていいのではないか。現代ものとして十分に表現できるはずのものに、奇妙な意匠を凝らしているからといって、それに「時代小説」などという一ジャンルを割り当ててやることはあるまい。
歴史小説というジャンルを創設したのは、森鷗外だと言われている。が、必ずしも歴史上の実在の人物だけを主人公としたわけではない。無名の市井の人、という設定であってもしかし、彼らの考え方や振る舞いはその時代に固有である。つまりはその時代の倫理に否応なく規定されている。決定的に過去らしいと感じるのは、その結果である。
現在とは無縁であるほどの決定的な過去ならば、書くにはおよばないとも言える。鷗外がやろうとしたのは、過去には顕在化しており、現在にも連綿と続いている日本人の心性の根源を探ることではなかったか。
歴史観、歴史認識とは結局のところ国、日本国と日本人に関わる思想のことだ。その思想表現を目指して書かれたものを、主人公が有名な実在の人物であってもなくても歴史小説と呼ぶ、ということなら、すっきりする。すっきりはするが、現在に至るまで、歴史小説の書き手はほとんどいなかったことにはなる。
夢枕獏氏の連載「織田信長伝奇行 JAGAE」では、織田信長と竹千代が対峙する。読むかぎり、日本国と日本人に関わる思想を明らかにしようとする歴史小説では、とりあえずないようだ。歴史小説ではない、過去の時代設定があるものを時代小説と総称するならば、これは時代小説だ。が、ファミリーの間で愛の欠乏を訴えるといった愚にもつかなさとは、もちろん無縁だ。なんと言っても、織田信長と竹千代なのだ。
過去の時代に固有の倫理から日本人の心性を追究するわけではないが、それこそ時代錯誤の現代ものに落ちることもない。とすれば、それこそはザ・時代小説と言うべきものだろう。ここでの信長と竹千代の対峙の仕方は、ようは古くも新しくもない。
人と人、特に男同士が肉体的に取っ組み合うというのは普遍的な図だ。その普遍性が伝わるならば、設定を過去に置く、すなわち時代小説とする必然性もあるというものだ。竹千代は子供だが、信長は言葉でも立場からでも容赦なく追い詰め、竹千代からの肉体的反撃を受け止める。大人も子供もない、というのはその時代固有の厳しさでなく、時代共通の普遍として描かれる。あたかも過去も現在もない、とでも言うかのように。そこに設定を超えるリアルがあり得る。
谷輪洋一
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