本誌に掲載されていた石井光太氏と松本仁一氏の対談記事は、なかなか興味深い内容であった。ノンフィクション作家とジャーナリストという、似て非なる二つの視点からメディアの形を論ずるということが好奇心を刺激する。
援助交際を例にして二つのメディアの違いを述べているところ。
「援助交際」も、今でこそ一般の人にも知られていますが、もともとはアンダーグラウンドで行われているものでした。ところが、マスメディアが大々的に報道したことで、実際に援助交際をする人が一気に増えたそうです。
(中略)
ノンフィクションの場合は、一冊千五百円、二千円の値段がついているし、そのお金を出して本を読もうという読者はある程度世の中に対する問題意識が高いという面があります。本の読者というだけでかなり選別されているわけです。だから、出来事をありのままに書いても、読者が「だったら自分が……」という発想に陥るケースは極めて少ないといえます。
この文章だけでも、大衆を相手にする新聞や週刊誌などのマスメディアと一定の層を相手にするノンフィクション作品との違いは伝わる。マスメディアができること、ノンフィクション作ができること。援助交際の例以外に、対談では各々の東日本大震災へ対する取り組み方が挙げられていた。
松本氏ら組織に属するジャーナリストたちは、属している組織の名前や資金を使い記事を書くことができるが、上司の許可がないと取材にいけないし、たとえ現場でドラマのような出来事が起こっていたとしても、一面を飾る記事は5W1Hの原則から外れてはいけないから本記にはなれない。
しかし、石井氏ら個人ジャーナリストたちは組織の後ろ盾がないかわりに自由に動くことができ、また、あまり人が目を向けないであろうことを記事にすることもできる。
石井氏の著書「津波の墓標」は東日本大震災を題材に書かれたノンフィクション作品だが、そこではニュースや新聞などで多く目にする原発問題ではなく津波に焦点をあてたという。今尚復旧しない福島第一原発や放射線についてのことは、2年経った今日でも多くのメディアが様々な形で報道を続けている。
しかし、津波についてはどうだろうか。地震が起こってすぐは津波の被害が凄まじく、テレビをつければトラウマになりかねないくらいにその映像が流れていたが、それも次第に姿を消してしまった。大衆へ向けて発しなければならない出来事は津波についてだけではないからだ。対談のなかで、被災地を取材したことについて石井氏はこう述べている。
僕は原発問題は一切取材しませんでした。爆発事故が起きた瞬間に「これは個人の手には絶対に負えないな」と感じたからです。もちろん個人で行って見えてくることもあるでしょうが、政治や経済などさまざまな問題が絡み合っているので、きっと限界があるだろうと。だから原発はマスメディアに任せて、津波に集中することに決めました。しかもマスメディアが取り上げないだろう、遺体安置所にフォーカスを当てることにしたんです。
読楽2月号より引用
この言葉から、組織ジャーナリストだからできること、逆に、個人ジャーナリストだからできることがよく読み取れる。
マスメディアは事実に即し、基本的には記者自身の考えを入れてはならない。その記事を読んだ読者は事実を知り、ときには我が身を省みるなどの行動を起こす。一方で、それを取材しノンフィクション作品として発刊した場合、作中には筆者自身の思惑が入り込み、読者はそれを受けて筆者と同調する、自身の立場に置き換えるなどの感情移入を行う。これら二つは同じ物事から異なる方向にベクトルが伸びた結果だ。
ジャーナリズムとノンフィクションの違いについては当たり前のようでも、言われなければちょっと見落としてしまう点ではあった。
有富千裕
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■