春告鳥、という特集である。作品本数は多くはなく、時代小説の現代ものにはない味わいとして「季節感」がある、というコンセプトだ。
単なる思いつきのようで、なかなか深淵なテーマではないか、と思う。確かに現代小説からは季節感が消えかかっている。そのことが今の小説の状況をいっそう貧しいものにしている、と言ったら妙に聞こえるだろうか。ならば、ちょいと季節感を取り入れることぐらい、簡単ではないか、と考えるだろう。
けれども時候の挨拶のような季節感が書き足されたところで、何かが本質的に変わるとは思えない。むしろ現代小説が季節感を失った理由について意識的であること、その理由こそに現代小説の本質的な問題の一端がひそんでいると気づいていることが必要だ。であれば、そこであえて表現される「季節感」は、挨拶じみた常套としての無自覚的なものとはちょっと異なる季節の匂いを漂わせることになる。
似たような問題を抱えるテーマとして、「風景」がある。小説に当たり前のように備えられていた風景描写が、いつのころからかごく後衛な雰囲気を漂わせるものとして流行らなくなった。「流行らない」というのはつまり都会、中央で、ということで、それをそういうものとして疑いもなく取り入れてしまうのは、田舎の同人誌の小父さんの手法っぽい、というわけだ。結婚式のゴンドラとかドライアイスに、滑稽とも思わずに感動できていたのに、余計な指摘をする東京もんのせいで…といったものに近い。
「昔むかし、あるところに…」といった無邪気な物語を人が紡ぐことができなくなって、ずいぶんと久しい。物語を相対化し、批判する視線を一度獲得してしまうと、もう昔には戻れなくなってしまった。それは進化ではあるかもしれないが、不幸とも言えることでもある。そんな不幸を自ら重ねる目的とは、思想の確立以外にはない。小説とは幸福な物語とは違うもので、幸せを手放した代わりに思想を手に入れようとしているものだ。
季節感も風景も、この手放された幸福に属していたものではあった。が、文学における思想の獲得にとっても、実は有用、むしろ欠かすべからざるものではないか。そのことは明治初期、近代日本文学が確立されようとしたときには、少なくとも夏目漱石には明確に意識されていた。俳句を中心とした日本的世界観と対峙しなくてはならなかったからだ。
現在の文学の貧しい状況は、季節感を失ったことそれ自体からもたらされたのではなく、季節感によって規定される日本的世界観から切り離されていることを当たり前のように思っているところから来ているように思う。
誰も皆、自分が呟くのに余念がないのか、他人のしていることに関心がなくなっている現在である。たとえば俳句や短歌といった日本的世界観が形づくるものをすっ飛ばして何ら勉強せず、小説を書いて小説家と呼ばれることだけが目標となっているのだ。小説にとって「春」とは何かを把握せずしては、どの鳥もそれを告げることはできないはずだが。
池田浩
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