マレビトの会『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(11月17日)
於:にしすがも創造舎
©笹岡啓子
第二の上演
出演 生実慧、牛尾千聖、桐澤千晶、児玉絵梨奈、駒田大輔、島崇、
武田暁、中本章太、西山真来、山口春美
照明 藤原康弘
演出 アイダミツル、藤原佳奈 、松田正隆 、三宅一平
音響作品 『横断の調べ』〜福島の海岸へ釣りに行った男〜/〜煙にまかれたジュークボックス〜
音響・構成・演出 荒木優光
照明 筆谷亮也
音響 齋藤学
音響オペレート 椎名晃嗣
声 荒木優光、武田暁(〜福島の海岸へ釣りに行った男〜)
水本剛志、渡邊寛子(〜煙にまかれたジュークボックス〜)
舞台監督 寅川英司+鴉屋、田中翼
宣伝写真 笹岡啓子
ドキュメント・ウェブデザイン 中山佐代
ドキュメントレイアウト 酒井一馬
舞台写真・映像記録 西野正将、田村友一郎
制作 新保奈未、中山佐代、森 真理子、吉田雄一郎
協力 青木セイ子、小畑瓊子、上村梓、金光男、
栗原弓枝、小出麻代、山田卓矢、株式会社 POP、
魚灯、福島県立盲学校、遊園地再生事業団
本公演は「にしすがも創造舎」という元豊島区立朝日中学校の校舎をそのまま再利用したアートスペースにて行われた。メインの上演空間は体育館に設えられている。校舎3階では同時に音響作品が上演されていたが、未鑑賞のため、本文は対象を当日の上演作品に絞っている。
上演空間への通路は四方を黒幕に覆われていて、外光が中の上演空間に入らないようになっている。入退場自由。7時間の上演中も入り口は常時解放されている。入場路は真っ暗で、狭く、「弓」の字のように曲がっているので、ほんの数秒とはいえ観客は暗闇に分け入るような体験を得る。積極的な暗転ともいえるだろう。暗い空間が開けると、小宇宙的な拡がりに息を呑む。廃校舎の小学校体育館を利用した上演空間は十分に広く(懐かしい狭さでもある)、俳優たちは頭上に吊るされた照明で明るむ位置にそれぞれ立ちつくしている。その間を観客だけが自由に歩き回る。
本作は特殊な上演形態を持つ。F/Tのブログ記事が詳しく説明しているので、ここでは仕組みには触れないが、本公演は‘その上演’のほうであり、つまり「アンティゴネーへの旅の記録」という先行上演作品の‘再演’となる。先行する上演はTwitterやブログ上にマルチメディアに展開されていて、また「アンティゴネーへの旅の記録」は実際に路上などで上演されてもいたので(Twitterでその都度事前にアナウンスされていた)、夏からリアルタイムに上演を追いかけた観客もあっただろう。しかし先行上演を見逃した観客に対しても、インターネットサイトと、製本された上演記録(台本)の当日配布という形で、先行上演へのアクセスをすべての‘再演’鑑賞者に‘事前に’保証している。
©山城大督
‘事前に’というのは、先行上演の観賞が‘再演’観劇以後に遅れるということが起こり得ないように、演技が抑制されているためだ。舞台に立ちつくす俳優たちは、その通り立ちつくしている。各俳優には登場人物の役があてられていて、場面転換の際には俳優を入れ替える入退場があるが(そのおかげで場面転換があったことを知るのだが)、それ以外には移動することもない。彼らの演技は極端に抑えられていて、目や唇の微細な動き、表情、仕草には観客が‘読み取る’ことができる文脈の情報が欠如している。台詞を発してもほとんど聞こえないので、それを聞き取ろうとするなら、観客は俳優の口元まで耳を近づけなければならない(筆者の観劇中そこまでする観客はいなかった)。もちろん、発声された音を正確に聞いたところで、意味や文脈を聞き取れるとは限らないが。
以上のような演技を前にして、観客はそれを事前のアクセスを保証されていた先行上演の‘再演’だと信じて、演劇行為に参加/介入することを余儀なくされる。作・演出の松田は本作を「読む演劇」と位置づける。ここでの‘読む’とは先ほどの‘読み取る’よりもずっと負担の大きい仕事だ。観客は歩き回りながら、俳優の配置や表情や仕草を見て、先行上演の一部分を連想しようと努めるだろう。本公演が保証しているのはこの仕事のための‘道具立て’なのである。観客は俳優と、あるいは上演の状況と一対一の関係を結び、その間で‘再演’を発見しようと試みる。それは言い換えれば、‘再演’が観客の参加を待ってはじめて発生するということにほかならない。
体育館の宇宙的なくらやみと、ぽつぽつと点灯した俳優のロクス=場には、演劇の最古から脈々とつづく劇世界の幻視空間に体ごと迷い込んだような感覚さえ覚える。俳優と俳優の間には視線の交わりさえ希薄で、観客の介入/参加を阻む要素はなにもない。場内には終始ノイズのような音響が弱く強く響いている。周囲には観客のためにベンチや椅子が、またその二隅には先行上演の台本が山積みされている。観客は台本に担保された戯曲テクストを持って自由に上演に介入/参加し、‘再演’を試みる。俳優間の空間は観客のためにある。観客を経由する‘再演’が舞台装置的に再現されているともいえる。
入退場自由。三か月以上にも及ぶ先行上演が7時間の上演時間に再構成されているが、初めから終わりまで居座ろうと、5分だけぐるぐる歩きまわっただけでも、演劇体験としてはそう大きく違わないだろう。あらゆる種類の観客に対して、俳優、あるいは上演の状況が用意している隔たりは一定だ。‘再演’を観賞しようとするならば、観客は‘読み’を積極的に発揮して、隔たりを埋めようと試みなければならない。そして観客は前もって知り得た台詞/場面しか観賞することができない。この点で、先行上演はあらゆる観客がすでに経験していなければならない演劇となり、目の前の‘その上演’なるものは常にその‘再演’として後置されるシステムが確認できる。上演形態に付けられた‘第一の上演’‘第二の上演’という名称は発生のシークエンスを明示し、両上演は‘必ず重なりあう’のである。
本作上演の核心はテクストの保存状態にある。ネット上の文字情報や山積みの台本にはテクストがそのまま記録されているが、観客が‘第二の上演’に持ち越せるのは記憶されたテクストに限られてしまう。たとえ‘第一の上演’を余すことなく目撃していたとしても、その記憶は決して記録とは一致しない。よって観客の演劇体験は記憶ベースの個人的な参加/介入がそのすべてであり、「アンティゴネーへの旅の記録」は厳密には決して‘再演’され得ない。記録されたテクストと記憶されたテクストの断絶。観客は保証されたすべての権利を持って演劇には臨めない。持ち込めるのは記憶処理過程で選択されたテクストの一部分だけなのだ。
戯曲の内容と上演形式はここにある共通点をみる。「アンティゴネーへの旅」の内容は、東京の演劇カンパニー「パトリオット劇場」が福島の海岸で盲目の老人一人のために『アンティゴネー』を上演するというものだ。劇団員は「誰かに見えるようにしか演技をしたことがない」「目が見えない人じゃないといけないのかな」と演出家に詰問するが、演出家は「一人で、目が見えない観客」であることが重要だという。‘第二の上演’はまさにそのような上演だ。観客は俳優の演技を見ているが、情報不足ゆえ見えないのに等しいし、そんな「わたし」が上演と結託して試みる‘再演’は誰とも共有できないのだから、観客は上演を前にいつもひとりだ。7時間の上演と5分間の滞在が等価になり得る根拠は、そのような観客の孤独である。彼らはそれぞれ満足するまで劇場内に滞在できる。満足した時点で出て行けいけばいい。
しかし、7時間後、終幕に起こった現象には不思議なニュアンスがあった。それは本公演中唯一観客が共同体の相をあらわした瞬間といえるかもしれない。上演時間が尽きると、俳優たちは観客に挨拶することもなく淡々と持ち場を去り、舞台を後にした。一瞬遅れて、観客も、もうなにもないことをそれぞれ確認したのちに拍手もなく退場した。俳優と観客が混じり合って同じ出入り口から出て行く様を見ると、両者とも私服で明確な容姿の区別がないため、上演中に両者を区別していたのが‘動き=アクション’の違いでしかなかったことに思い至った。あるいは、俳優のそばに立ち尽くして鑑賞していた‘わたし’を俳優と思って鑑賞した観客がいたかもしれなかった。。
そのとき‘わたし’と‘俳優’を区別する要素はあったのか。‘わたし’が‘観客’である証拠はあったのか。戯曲のテクストを演じる俳優と、戯曲のテクストを俳優に探す観客は、お互いの記憶に保存された部分的テクストを衝突させながら、協同して‘再演’を試みていたことになる。それを目撃した第三者の観客は、たとえ一瞬であっても、彼(女)の記憶をもって、部分的テクストの衝突に参加/介入した可能性がある。そして一瞬なりとも‘わたし’を俳優とし、そこに‘ある場面’が成立したならば、それも‘再演’にほかならない。俳優と観客の区別がこれほど危ういものであったことを、一斉退場の光景が暗示する。
その危うさがつまるところ演劇の危うさである。本作は危うさを突き詰めている。俳優がテクストを発話するかぎりにおいては、その声の一斉に届く範囲は劇場になり、届いた聴衆は観客に、その後発話者は俳優と認知され、たとえ‘聞こえ’に個人差があっても、ひとつの共同体として上演が成立する。それは発話されたテクストが担保している現象だ。ダンスや黙劇であってもテクストにあたる‘ことば’は発話され、聴取されているだろう。しかし本作は、すでに発話され、記録されたテクストをめいめいに一部分記憶していることを前提とし、その痕跡を信用して、‘ある即興’として‘再演’する。そして7時間が過ぎれば、俳優も観客もこれでもうなにもないことを、お互いにはじめて確認できる。それは同時に、上演に参加/介入していた‘すべての形態の他者’から解放され、観客がめいめいに‘わたし’を回復することでもある。しかし、「めいめいの‘わたし’がお互いに確認されている」という矛盾が、ここで逆説的に暴かれることになる。いま‘わたし’を確認しているのは、いったいどんな共同体なのか。どのテクストが担保しているのか。演劇の危うさが‘わたし’たちの危うさにすり替わったのを、無意識にわかってしまったためなのだろうか、観客は拍手をためらったままずるずると退場した。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■