フェスティバル / トーキョー12主催作品
地点『光のない。』(鑑賞日:11月17日)
於:東京芸術劇場プレイハウス
(c)Naoya Hatakeyama
原作 エルフリーデ・イェリネク
翻訳 林立騎
演出 三浦基(地点)
音楽監督 三輪眞弘
美術 木津潤平
出演 安部聡子
石田大
窪田史恵
河野早紀
小林洋平
(以上、地点)
合唱隊 石田遼祐、板野弘明、小柏俊恵、黒田早彩、平良頼子、中原信貴
野口亜依子、林美希、藤崎優二、幣真千子、村田結、米津知実
衣裳 堂本教子
照明 大石真一郎(KAAT)
音響 徳久礼子(KAAT)
舞台監督 山口英峰(KAAT)
技術監督 堀内真人(KAAT)
制作 田嶋結菜(地点)
製作 フェスティバル/トーキョー、地点
制作協力 KAAT神奈川芸術劇場
協力 急な坂スタジオ
イェリネクの戯曲『光のない。』は東日本大震災後に創作されたテクストである。作者のホームページで無料公開され、現在も公開されている(2011年12月21日に全文が公開された)。事故直後の収束作業の様子や子どもたちの被爆調査など、数枚が写真がテクストの間に挿入されている。よって本作は震災と原発事故を取材した戯曲である。しかし原発事故の物語とはいえない。戯曲はA、Bとだけ指示された第一ヴァイオリン‘erste geige’と第二ヴァイオリン‘zweite geige‘の対話からなる。が、それは交互に発声される独白に近い。筋という筋はない。事件はすでに発生しており、終結することもない。
(C)Hisaki Matsumoto
(c)Naoya Hatakeyama
鑑賞日のアフタートークで、演出の三浦基、音楽を担当した三輪眞弘、ゲストの片山杜秀はテクストの重層性を指摘した。‘geige(ガイゲ)’という単語が‘ガイガーカウンター’との言葉遊びになっていること(ガイガーカウンターの名称は発明者Hans Wilhelm Geigerに由来する。Geigerはヴァイオリニストの意)弦を鳴らす振動と原子核反応の振動、弓によって加えられた力の解放と室内圧力のベントとしての発振などの、数々の連想が織り込まれているという。翻訳者の林立騎は、イェリネク戯曲の共通項としての‘stimme(声/票)’の意味の複数性に、民主主義を問い直す作者の視座を読解する。(『光のない。』あとがき)
さて、地点版『光のない。』の上演は、三浦による創作の挿入で幕を開ける。「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」。舞台に登場した俳優たちは「わたし」「あなた」とお互いを指差し、つぎには指先を観客の一人一人に向けて言う、「わたしわたしわたし、わたわたわたわたわた…あ、なた」。観客席に増幅する「わたし」を、今度は適当な名字に言い換える。たとえば高橋三浦山中佐藤林渡辺野中…。偶然にも言い当てられた観客がいたかもしれない。
三浦があえてこのようなテクストを創作した動機には原作テクストへの批評があるだろう。ところが本上演でのそれは完全再現の宣言にも等しい。イェリネクは戯曲の上演に関してこう言っている。
わたしの作品に対しては、介入しても、どこかへ誘導してもかまいません。そしてまさにそのとき、たとえどこへ向けてであれ、なにが誘導されたのか、そこにわたしは興味を持ちます。(・・・)複雑に絡み合ったわたしのテクストから上演がなにかを取り出し、それをみなさんが持ち帰れるよう願っています。そしてわたしは、持ち帰ったそのものが、みなさんの家ですべてを覆い尽くすほど生い茂らないことを望みます。持ち帰ったものが、みなさんの意識によって、最終的にはやはりふたたび制御されることを望みます。
(『光のない。』冒頭「日本の読者に」より引用)
こうしたイェリネクの態度に、三浦はどう応えているか。
政治性とは関係性といってもよい。(・・・)イェリネクは、わたしとあなたとのでもないと言っている。わたしはあなたであり、わたしたちでありあなたたちだと一見、ふざけたことを言っている。イェリネクの作品での主語に『わたしたち』が頻出するのは、政治性を問うた結果なのである。つまりイェリネクが書くのは、物語ではなくわたしたちに起こった『出来事』についてなのだ。
(F/T12当日パンフレットの演出ノートより引用)
‘わたしたち‘を‘あなたたち‘のままにすること。‘あなた’によって‘わたし’が定まるのであれば、‘わたし’は‘あなた’には先立たない。‘わたし’はいつも遅れてくる。‘わたし‘に先立って語りべはいない。物語とはいつも遅れて語られるからだ。「出来事」を書くとは、つまり物語られる以前の言葉で書くことである。語るべき‘あなた’を‘わたし’から切り離す以前まで時間を遡ることである。そのときには、‘あなた’は‘わたし’の内に留まっている。イェリネクが‘あなた’を含む‘わたし’に立ち戻ることができることに、三浦は驚愕したという。そして戯曲テキストに介入し誘導することなく、‘物語以前の言葉’を保存した上演であることを、滅多にやらないという創作を加えて、まず宣言したのだ。
こうした三浦の演出態度はヴァイオリンという語り手の処理にも表れている。第一、第二と秩序立てられたヴァイオリンの関係は、ヴァイオリンケースが俳優間で交換され、一度など舞台から落としてしまい観客に拾わせるといった演出によって、‘第’が示す定冠詞的識別性は無効になる。また、発話そのものも発話主体との関係を解体されている。それぞれのヴァイオリンに割り当てられたテクストはさらに複数の俳優たちの「持ち台詞」に再配分され、また発話はほころび発語の位相を見せている。ここでわたしは「発話」を、ある限定された意味や文脈を示す「声」という意味で用いている。それに対して「発語」は、発話した主体が限定したところの意味や文脈の範疇の外側にある意味や文脈を聞かせる「音」と考えられるだろう。「地点語」とも言われる独特のアクセントやリズムによって、台詞は変質して上演される。この点は地点の演劇に一定して見られる要素ではあるが、本作においては、イェリネクの言う「複雑に絡み合ったテクスト」を保存し、さらに強化しているといえるだろう。アフタートークで三浦の語ったところによると、俳優たちの発語に関してほとんど指示はなかったという。こうして戯曲テクストはある個人による統一的な、限定的な意味付けを免れ、本来持ちうる多義性、複数性をしたまま上演されたのである。
ポリフォニック(多声的)な、あるいはアンイデオロジカルな‘音’の位相は、三輪の音楽にも再現されている。本上演は舞台前方の傾斜に隠れたコーラス・ピットに合唱隊を従えているが(寝そべった彼らの足だけが観客席から見えている)、彼らには指揮者がない。コーラスを統合するのはじゃんけんゲームのようなアルゴリズムで、端から端へ■◇◆…と手探りの後だしじゃんけんを続けていき、端で折り返して再び■◇◆…それぞれの記号にはあらかじめ発声がプログラムされているので、音楽は合唱隊の身体から自動的に生成され、生身の手探りの即興性をも織り込んで演奏されるのだ。ここでも語り手はゲームの偶然性に散逸して輪郭を失っている。もう一つ、音楽的な試みに「ピリピリ」という楽器を導入していることにも触れておきたい。これは鈴のような楽器を持った奏者の腕に電気端子を接着して、電気信号で筋肉を収縮させることで楽器を鳴らすシステムであり、奏者の意思を演奏に介入させないことで、やはり奏者主体(語り手)を曖昧にしているといえる。
本作が物語以前を書き起こしていること、‘あなた’から識別される前の‘わたしたち‘の出来事であることが、上演のあらゆる‘音の演出’と絡み合って‘わたしたち’に提示される。「わたわたわたわた…」と観客は何度でも‘わたしたち’にカウントされる。‘わたしたち‘は曖昧な存在だ。三月の公演『トカトントンと』では、俳優たちがそのような存在として、観客と観客の現実の相から区別されていたように思う。そこで効果的だったのは、俳優の足下を観客の目から隠した傾斜舞台だった。本作も傾斜舞台を採用している。それも『トカトントンと』とは逆に、観客席から舞台奥へとせり上がった傾斜で。『トカトントンと』の曖昧性の舞台が観客席に開かれた。というより地続きになった。観客に接触するヴァイオリンケースの一場面、開幕時に観客席から舞台に上がった俳優の登場場面。‘わたしたち‘が見上げる舞台最上段には四角に切り取られた光の漏れ口(ベント)がある。全体を見ると、俳優たちは光を目指して傾斜を登っていくようだが、彼らの表象する肉体は重い。
俳優たちはテクストを一定量発語し終えると魂が抜けたように倒れ込む。ダイビングスーツに足ひれをつけた俳優もいる。彼らの表象する肉体はそれほどに重く、動かしにくい。足だけが見える合唱隊は舞台に重く埋まったかのように見える。そして舞台の地下から生者とも死者とも獣ともつかないあいまいなアンサンブルが響いてくる。俳優たちの肉体は明らかに‘下降’に引きつけられられている。このような重力はどこからくるのか。地震が地上の出来事であり、その影響が地上に降り積もり、地上を苦しめるからでもあるだろう。しかしそれは本作の一面にすぎず、むしろ俳優の肉体を押し下げていくのは戯曲のテクストそのものではないか。
イェリネクはそれを竹林の「地下茎」に見立てている。彼女のテクストは文字が表象する意味のさらに下部に埋まっているのだ。テクストを持った俳優の肉体はその重さを引き受けている。‘重さ’はテクストの複雑さだ。発語されたテクストは観客の意識に降り積もり、沈んで、やはり地下茎を構築する。そうしなければならない。イェリネクはテクストの地上部分を回収してその収穫を‘物語られる’のを拒んではいないが、三浦がそれを拒む以上、本上演は、いまだ地下にあって見えないが間違いなく‘今現在‘に地下にあるそのテクストをそのまま保存し、いわばその地下構造をそのまま舞台上に提示しなければならない。よって俳優の肉体は‘重い’のだ。地中とも水中ともわからないような曖昧な集合写真のような舞台の全景は、テクストの全体像でもあるのである。
「ちぢむ。曲がる。なにが」
「判決がほしい。あなたたちの判決がほしい!」
防火シャッターの重い下降によって幕は下ろされる。防火シャッターは機能上、「出来事」が収束するまで上がることはない。再び上がるような気配をにじませる緞帳では、本作の閉幕はつとまらないのだ。こうして観客は最後に舞台から閉め出されることになる。‘重い‘テクスト/地下茎が意識の地下に残される。イェリネクの望み通りだ。そして彼女は「みなさんの意識によって、最終的にはやはりふたたび制御されることを望みます」と、観客によって‘はじめて’テクストが‘発声’される受容のシステムを、あらかじめ戯曲に織り込んでいる。防火シャッターを用いたことは、上演の終わりという以上に終わりを強調していた。それは観客の、F / T 12に震災後の‘わたしたち’を代弁する「ことば」を期待してやってきた観客の、失語的時間の終わりをも暗示させるのだ。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■