きみゆけば遠く空なる芭蕉かも
岡野隆さんの連載『唐門会所蔵作品』を読んでいたら、『きみゆけば遠く空なる芭蕉かも』の初稿が『驢馬行けば遠く空(くう)なる芭蕉かも』だということに気づいた(『No.011 未刊句集篇④伽藍抄/裏庭抄/奈落鈔/明母鈔』参照)。未刊句集『明母集』に収録されている。『驢馬行けば』と『きみゆけば』では読後感がまったく違う。当然『きみゆけば』の方がいい。ただこの句はどう読み解いたらいいのだろうか。
僕は俳句評釈が苦手で、だからこの連載も『墨書句漫読』にしたのだが、どう考えても字義通りに読む方がいい句とそうでない句があると思う。たとえば安井さんの代表句『渚で鳴る巻貝有機質は死して』が、『浜辺に巻貝がころがっている。中の肉は腐り溶けてしまっていて、かすかな腐臭がする。そして海からの風が巻貝に吹き込んで無常の音を奏でるのだ』と評釈されていれば、『う~ん』と唸って天を仰いでしまいそうだ。決して間違いではないのだが、鶴山裕司さんが『安井浩司『俳句と書』展』公式カタログ兼書籍で書いておられるように、『巻貝』は『俳句形式』の、『有機質』は『俳句作品の表現内容』だと読み解いた方が絶対に〝面白い〟と思う。
以前岡野さんが、『どんなに下手でも俳句を詠める人が日本人だといってもいいくらいだよね』と話しておられた。実際、俳句は日本で最大の創作者人口を持つ国民的大衆文学である。ただ岡野さんは、『だから俳人さんたちは日本人なら誰でも俳句が理解できると思っていて、現実と一対一対応の平板な評釈が生まれるんだよ。でもそれは俳人の傲慢だけどね』ともおっしゃっていた。確かにそういう面もあるのだが、この問題はなかなかに厄介である。
たとえば『あなたを愛しています』という散文を、『あなたを/愛しています』に行切りし、さらに『愛しています/あなたを』と転倒させ、『愛しています/あなたを/愛しています』と変奏させていくと、なんとなく僕らがイメージするポエティカル(詩的)な雰囲気になってくる。詩的と詩は違うと言われればそれまでだが、僕らが使っている日常の言葉が詩になるためには、散文では説明し尽くせない付加的要素が必要なのは確かである。俳句も詩である以上、この付加的要素の解釈が読者によって異なるのは当然である。しかしどこまで自由に解釈していいのかという問題はある。特に俳句のように短い詩の場合、あまり突拍子もない解釈はできないだろうとも思うわけである。
『きみゆけば遠く空なる芭蕉かも』をできるだけ文字通りに解釈すれば、『君が歩いてゆくと、遠くの方に、葉鞘を剥くと幹がなく、ついには空になってしまう芭蕉が現れる(見えてくる)』ということになろうか。芭蕉が〝空〟の植物であることから、『君は遠くの芭蕉を目指して、言い換えると〝大空(だいくう)〟へと歩んでゆくのだ』と解釈するのも不可能ではあるまい。また実際、安井さんは芭蕉と空を題材にした文章を書いておられる。
芭蕉は、東洋において空なる植物と謂われる。かの形而上学的志向の相(すがた)はともかく、いわゆる大草本として茎なす葉鞘を捲るほどに、その中核の実体は遠く、遂に無体になることに由来する。(中略)
俳句の裾野を踏んで、はや五十余年が過ぎた。振り返って思えば、その営為は茎皮を剝くごとく、時空の内奥を訪うほどに、我が願われた実体は彼方へと退るのであった。(中略)
歳月ここに至り、今や是空、是色などと力む気は毛頭無いが、さりとて「空」なるものの孕む真相にいよいよ無責任で在ることは出来ず、その真性を尋ねてのささやかな夢を捨てるわけにはいかないだろう。
なお、本書の題は、直接には次の一句に拠った。
きみゆけば遠く空(くう)なる芭蕉かも 『霊果』
(句集『空なる芭蕉』『後記』平成22年[2010年])
『空なる芭蕉』は現在の安井さんの最新句集である。その『後記』で安井さんは、自分の文学は『「空」なるものの孕む真相』に迫る試みだったのであり、それはこれからも続くだろうと書いておられる。『空』を芭蕉に重ね合わせて語っておられるのである。芭蕉という植物は存在するが、その本体は捉えがたい。芭蕉は『茎なす葉鞘を捲るほどに、その中核の実体は遠く、遂に無体にな』ってしまうからである。
安井さんは『宗教はその絶対を実在化しようとしますが、芸術は絶対性における絶対を不在化させるだけです。そこを踏まえて申せば、絶対言語とは詩人にとって最高の夢でありつつ、私にとってはささやかな願望ということでしょうか』(『安井浩司選句集』所収『インタビュー』)とも語っておられる。芭蕉はこの『絶対言語』の詩的形象だと言っていいだろう。絶対言語は理念として存在するがその実体は空である。芭蕉が実在しながらその本質が空であるように、絶対言語は存在するが言語化されたとたんに空無化する。
小難しいことを言い出せば、それはポスト・モダニズム哲学の〝根底の不在〟概念に近い。どんなに思念を深め歴史を遡っても、世界を成立させている原理は見出すことができない。しかし原理(神)が不在だと断定しても世界は混乱に陥らない。相変わらず世界を秩序あるものに保っている何物かは存在し、かつその実体は措定できないだけのことである。俳句に即せば、俳句の実体を完全認識把握したいと願う人がどこまで歴史を遡っても、俳句と呼ばれる秩序総体(完体)は認識できるがその実体を措定できないのと同様である。
だから僕の読解は、どうしても字義通りではない方向にいってしまう。芭蕉はもしかすると、俳聖〝芭蕉〟をも指しているのではないかという疑義である。安井さんには『芭蕉等が来れば早苗に面(かお)隠し』(『乾坤』)、『蕉門は外套に鶏を隠し来る』(『乾坤』)、『芭蕉庵なぜ黒凧が上がるのか』(『汎人』)といった、芭蕉や蕉門、芭蕉庵を詠んだ句がある。しかし芭蕉と空を結び付けた作品はない。だが『きみゆけば』の句を詠んだ時、あるいは『空なる芭蕉』というタイトを付けた時に、〝あの芭蕉〟が安井さんの頭に浮かばなかったとはちょっと思えないのである。
芭蕉によって、それまで言葉遊びの域を出なかった俳諧が文学にまで昇華されたのは周知の通りである。もっと言えば『古池や蛙飛び込む水の音』一句によって俳句文学は成立した。しかしこの単純な風景描写がなぜ詩なのか、なぜ無限の読解を呼び起こすのか、なぜ俳句文学の基盤であるのかを明らかにするのは難しい。植物の芭蕉の皮を剝いてゆくと遂には無に帰してしまうように、この句はあらゆる分析を跳ね返すだろう。まさしく〝空なる芭蕉〟ではあるまいか。俳句を究めれば究めるほど、その〝空〟のありようが迫ってくるのではないか。
なお『古池や』の句は、芭蕉が下の『蛙飛び込む水の音』を先に作って門弟に上の句を考えさせたという伝承がある。其角は『山吹や』と付けたが芭蕉が『古池や』に改めたのだという。安井さんは『驢馬行けば』を『きみゆけば』に改めたが、偶然とはいえ両句とも上の句が改稿を経ているのも面白い。
山本俊則
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