第5句集『密母集』の原型となった未刊句集第2弾は『伽藍抄』『裏庭抄』『奈落鈔』『明母鈔』の4冊である。4冊ともに万年筆で句が書かれた市販の原稿用紙を二つ折りにし、カバーを付けて製本してある。このうち『明母鈔』だけ制作年月日がわかる。扉に『54.1.26』のスタンプが捺してあり、巻末に『54.1.30』のスタンプがある。原稿は昭和54年(1979年)1月26日に仕上がり1月30日に製本されたということだろう。
『密母集』は昭和54年(1979年)9月9日に刊行されている。内容から判断してこれら4冊は、前回取り上げた『阿賴耶抄』制作の52年(77年)1月から、『密母集』刊行年の54年(79年)までの2年間に作られたのではないかと推測される。
後に『句集原稿篇』で紹介する予定だが、『阿賴耶抄』も含め、これら4冊の未刊句集原稿の一部は安井氏が当時所属していた永田耕衣主宰の俳誌『琴座』などに発表されている。しかし句の掲載順、およびタイトルは、未刊句集原稿と異なるものがある。従って原(ウル)『密母集』といっても、これら4冊はそのほんの一部だということを留意していただきたい。以下に4冊の未刊句集と『密母集』『霊果』の収録句対応表を掲げておく。
表からわかるように『伽藍抄』には第7句集『霊果』に収録された句が一つもない。収録句でいえば、『阿賴耶抄』と同様、『密母集』前半の『拾遺』から『秘密』に句が集中している。そこから4冊の中では『伽藍抄』が一番最初に制作されたのではないかと推測される。『裏庭抄』は収録句でいえば『密母集』全体の章に句がばらけている。これはまだ『密母集』の章構成が固まっていない時期に書かれたためではなかろうか。
『奈落鈔』は4冊の中では唯一、『密母集』でもその章タイトルが採用された未刊句集である。それを裏付けるように収録句では『密母集』の『奈落鈔』に句が集中している。『明母鈔』は章タイトルとしては採用されなかったが、収録句は『密母集』の『歓喜妻』と『古春や』に多い。句集編纂過程で『明母鈔』は、『歓喜妻』と『古春や』の2つの章に解体・再構成されたのだと言っていいだろう。
未刊句集からは、安井氏が常に一つの主題に沿って句を書き下ろし、句集刊行までに厖大な数の句を取捨選択していることがうかがい知れる。半数以上の句がどの句集にも収録されずに棄却されているのである。1冊の句集を作るのに、最終収録句に倍する作品を作る俳句作家はあまりいないはずである。ましてや安井氏は漠然と作品を書く作家ではない。最初から1冊の句集を作るために主題を設定して俳句を連作している。その主題がまた、句集刊行までに様々に変容していくのである。このような俳句作家は皆無だろう。
大前提的な概念を整理しておけば、第4句集『阿父学』(昭和49年[1974年])と第5句集『密母集』(昭和54年[1979年])は対をなす句集である。言うまでもなく『父』と『母』の概念が表裏一体に表現されている。『No.009 未刊句集②『涅槃學』』で書いたように、『阿父学』は『涅槃』をすでに経験した父親=先人(『阿父』)の文書を巡る『学』、すなわち死と悟りの境地(『涅槃』)の相対化だと読み解くことができる。『早春斯くして人は天にも昇るらん』という『阿父学』最終句は、安井氏が写生的な叙景句ではなく、異界をも含む人間の想像界全体を表現したいと指向していることを示唆しているだろう。
前回触れたが、原(ウル)『密母集』である『阿賴耶抄』の『阿賴耶』は密教哲学用語である。唯識哲学では現実界を、モノと言葉が一対一で対応した固着化した世界だとは考えない。人間は無意識界に膨大な元型イマージュを抱えている。元型イマージュは即物的イマージュと非即物的イマージュに分類できる。即物的イマージュが現実界に存在するモノと結びついて人間の日常を構成するのである。その中枢を司るのが阿賴耶識である。
つまり普段は安定して見える世界は、実は広大な非即物的イマージュの海の上の氷山の一角に過ぎない。ふとしたきっかけで人間の世界認識は簡単に崩れ去ってしまう。色即是空といった仏教認識はそのような哲理から生まれている。しかし人間が絶えず創出し続けている、必ずしも現実界とは対応しない非即物的イマージュが、想像力・創造力の源になっているのである。
また日本の密教とチベット・インド系の密教は、本質的構造は同じだが大きく異なる点もある。人間の性を巡る解釈である。日本の密教は一部の例外を除いて男女交合を排除する。しかしチベット・インド系の密教では男女交合は世界生成の極北的概念である。時に邪宗と指弾されるが、必ずしもセックス自体を重視しているわけではない。意識の最深層領域である阿賴耶識が存在文節の方向性を形成する種子(しゅうじ)を生み出し、それが無意識領域で元型イマージュを創出する構造を、男女交合に重ね合わせて解釈するのである。単純化すれば種子は男性性の喩である。人間の無意識界は現実生成の母胎だが、それは女性性の喩として捉えることができる。
栗の花おみなは人を孕むらん
夏の海ふとヴァイオリンの妊娠へ
麦秋の厠ひらけばみなおみな
空海忌汝がふくらはぎに妊(みごも)れり
茅野をゆく老師の裏はおみなかな
蓼をゆく秘密身ならヴァイオリン
はこべらや人は陰門(ひなと)へむかう旅
『密母集』から女性性が詠まれた句を選んだ。『栗の花』は『密母集』巻頭を飾る句だが、それが様々に変奏されていることがわかるだろう。世界は女性性で満ちている。ヴァイオリンは文字通り妊娠し、枯れた老師は裏側に女性性を隠している。日本の密教の祖である空海のふくらはぎにも女性性が宿り、それはなにものかを生み出す。人は、世界は、女性の陰門に向かうという形で描写されるのである。だがそれは決して聖なるものではない。聖俗混交の世界創出の源であるという意味で、『山中の卑なる女(め)にして、だが会うほどに陀羅尼優語、かけがえのないわが密母』(『密母集』『後記』)である。
暗き河より湧きでるわが乘(じよう)のひばり
雪の高野へするめを送る婢なりけり
犬交むすべてが持続のよもぎぐさ
蛇食う人は円に非らず方に非らず
松蔭からふいに厠へ入いる者よ
月にてらされ自転車を分解する女
楤(たら)の木にやまももを接ぐ刹那かも
(『明母鈔』より『明母(みょうぼ)-八章による五十六句-』Ⅲ全)
未刊句集『明母鈔』前半の『明母(みょうぼ)-八章による五十六句-』Ⅲに収録された7句だが、ここからは一句も『密母集』に選ばれなかった。『犬交むすべてが持続のよもぎぐさ』『蛇食う人は円に非らず方に非らず』といった句は『密母集』に選ばれても遜色ないと思うが、これらの句は捨て去られたのである。
安井氏の創作の秘密の深奥は選句の基準にあるだろう。しかしこれはそう簡単に読み解けるものではない。氏の選句基準は単純な技術的巧拙には置かれていないからである。まず可能な限り拾遺句を集めて、皆さんのお知恵をお借りするのも本稿の大きな目的である。
岡野隆
■ 『伽藍抄』表紙 ■
■ 『伽藍抄』本文 ■
【未刊句集『伽藍抄』書誌データ】
手製本。満寿屋製の原稿用紙を二つ折りにして表紙・見返しの紙を足し、和紙の表紙でくるんで糸で留めてある。原稿用紙の枚数は6枚(12ページ)。『伽藍』(一)(二)、『伽藍研究』、『無在郷』、『庭』、『假法(けほう)』から構成される。全90句が収録されているが、6句重複しているので実質的には84句。後に第5句集『密母集』(昭和54年[1979年])に収録される句が34句、残り50句は未発表句。制作年度は記されていないが、『阿賴耶抄』制作の52年(77年)1月から、『密母集』刊行年の54年(79年)までの2年間に作られたのではないかと推定される。
【未刊句集『伽藍抄』全文】
伽藍抄 安井浩司句集 お浩司唐門会
伽藍(一) 安井浩司
大鴉かの頭韻こそは毒ならん (⑤『密母集』『大鴉』)
晩春にとどまれなくなる扉猫 (⑤『密母集』『大鴉』)
菫をぬいゆく犬の頭大火三(み)つ
おがくずと無数の斑猫もやしけり
遠泳やさくやは蛇の盗まれし (⑤『密母集』『大鴉』)*1
片蔭に隠者の母のやさしさよ
古池にヴァイオリンは来つつあり
赤松こそ廻転しつつ生えゆく夜 (⑤『密母集』『大鴉』)*2
人をやく空あらゆる毛の隠れけり
土塀をゆく先師の首に赤蛇よ (⑤『密母集』『拾遺』)*3
犬に水を遠いけむりには欲望を
北窓に宇宙の塩や赤とんぼ
砂山を預流果(よるか)のごとく歩みけり (⑤『密母集』『大鴉』)
枯蓮は日霊(ひる)のごとくに明るけれ (⑤『密母集』『大鴉』)
藪入やわが「蛇」の字のかけじくに (⑤『密母集』『大鴉』)
伽藍(二) 安井浩司
姉よこむらさきの手を兜の辺に
蛇湧くやあゝヴァイオリンの上の水
毛が流れきて生えはじむ凡兆忌
日蔭鬘(ひかげかづら)かの母を地に投げる者よ (⑤『密母集』『大鴉』)*4
睡蓮や僧侶はうすき膜である (⑤『密母集』『同異抄』)
世阿彌忌の地上の蛇を養いき
故郷から吾(あ)をさししめす春の虎
旅人が蕎麦を落した日野の川
発狂するに誰も来たらず竹の花 (⑤『密母集』『大鴉』)
あじさいに隣家の蛇の匂ひかな
椎の名のはるかな一人が自転せり (⑤『密母集』『大鴉』)*5
拝殿からしやくとりむしのまま帰る (⑤『密母集』『歓喜妻』)*6
みな嫁ぎゆけり怖る山のあきかぜ
凡兆忌犬の彼方の荒地かな
夕空へ麹を背負うや神ひとつ
伽藍研究 安井浩司
早春や欄間に蛇の生えそめし (⑤『密母集』『大鴉』)*7
少年が水へかぶさる呉服かな
縞蛇がときどき帰る丸岩に
狂人とは榎の上の日の曲り (⑤『密母集』『秘密』)*8
夏草や蛇の柱を入れる家 (⑤『密母集』『秘密』)
校庭のひるの槇より死人(しびと)でる (⑤『密母集』『大鴉』)
見えないが松の上の鬼やんま (⑤『密母集』『大鴉』)*9
夕空へ燃(も)す梯子段をばらばらに
顔眞郷をかくあかつきの犬狩か
青荻やはるかの火事を消火せず
阿父學を遂にひらけば遠の小火(ぼや)
夕火事に蝉にぎる手のむらさきや
日下部と呼ばれるすすきの中の友 (⑤『密母集』『同異抄』)
夕空に昇るにわれらのいとどかな
葛の花さそりはおみなを噛みおらん (⑤『密母集』『秘密』)*10
無在郷 安井浩司
夕空に麹を背負えば渦ひとつ (⑤『密母集』『拾遺』)
春の空鴉は子宮を閉じるべし
日曜の校庭を蛇よぎるのみ
遠浅に溺れそめたる葛の花
阿父学を遂にひらけば遠の小火(ぼや)
狂人とは柱の菌糸のひとならび
穢の母にやどる人なら粒いちご (⑤『密母集』『秘密』)*11
法華寺の空から蛇が垂れる妻 (⑤『密母集』『秘密』)*12
青草を噛みつつ大工は夢殿へ
幼年やすぎなをよぎる蛇の妻
ひるがおにかの甲板も女(め)なりけり
蓼の花横にさびしき犬の妻 (⑤『密母集』『秘密』)
旅人よ貝をのぞけば肉が無く
空海忌かのかけじくへ嫁ぎゆく
春から秋へときどき生える黒苺
庭 安井浩司
重(かさね)とは蒼穹に散るさるすべり
黒牡丹庭から海へ歩み去る (⑤『密母集』『秘密』)
ひるがおの花の深さに姉の家 (⑤『密母集』『秘密』)
ピストルに日陰の蛇を招くのみ
遠泳や振りかえるとき蓼に母 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
夕空に蛇も学者もよもぎぐさ
犬噛み合うかの永延のさるすべり
夏の海ふとヴァイオリンの妊娠へ (⑤『密母集』『大鴉』)
旅人のふと日野の穢のくるぶしか (⑤『密母集』『同異抄』)
校庭に生えたる百済の白蜜柑 (⑤『密母集』『大鴉』)
青葛をもやせば僧侶よ青手毬
空へ放つ白の微妙(みみょう)の猫である (⑤『密母集』『秘密』)*13
麥青むあゝヴァイオリンの上の蛇 (⑤『密母集』『歓喜妻』)*14
青空を物ながれきて猿の終り
春の海蛇現われて消えにけり
假法(けほう) 安井浩司
校庭に膓(わた)を放つやさるすべり
夕空に眼の残りたる蛇苺
土塀をゆく先師の首に赤蛇よ (⑤『密母集』『拾遺』)*3
椎の名のはるかな一人が自転せり (⑤『密母集』『大鴉』)*5
青蓮華やがてわれらの猫となる
旅人が蕎麦を落とした日野の川
赤松こそ回転しつつ生えゆく夜 (⑤『密母集』『大鴉』)*2
赤松に蛇現われず秋の暮 (⑤『密母集』『秘密』)
犬つるみはじむ二番星の下
桜蔭婢はやまどりと変(な)りにけり (⑤『密母集』『大鴉』)*15
椎の実が地上の蛇を養いき
白牛は多毛の陰をよろこびぬ
人をやく空あらゆる毛の隠れけり
拝殿からしやくとりむしのまま帰る (⑤『密母集』『歓喜妻』)*6
ふるさとの火事に照らさる芭蕉葉よ
お浩司唐門会(雅印)
【註】
* 句の後に収録句集名と章を表記してある。数字①、②…は第1句集、第2句集…の略。
*1 定稿では『盗まれし』は『盗まれて』。
*2 定稿では『赤松こそ』は『赤松は』。
*3 定稿では『先師』は『老師』。
*4 定稿では『鬘』は『蔓』。
*5 定稿では『自転せり』は『廻転し』。
*6 定稿では『拝殿』は『夢殿』。
*7 定稿では『早春や』は『晩春や』、『蛇の』は『さそりの』。
*8 定稿では『曲り』は『曲がり』。
*9 定稿では『松』は『榎』。
*10 定稿では『さそり』は『蠍』。
*11 定稿では『いちご』は『苺』。
*12 定稿では『蛇が垂れる妻』は『垂れる蛇の妻』。
*13 定稿では『空へ放つ』は『雨空に』。
*14 定稿では『麥青むあゝ』は『大麦は穂に』。
*15 定稿では『桜蔭婢』は『棗蔭婢』。
■ 『裏庭抄』表紙 ■
■ 『裏庭抄』本文 ■
【未刊句集『裏庭抄』書誌データ】
手製本。満寿屋製の原稿用紙を二つ折りにして表紙・見返しの紙を足し、和紙の表紙でくるんで糸で留めてある。原稿用紙の枚数は5枚(10ページ)。全70句が収録されている(抹消句3句を含む)。後に第5句集『密母集』(昭和54年[1979年])に収録される句が10句、第6句集『霊果』(57年[82年])に収録される句が5句あり、残り55句は未発表句。制作年度は記されていないが、『阿賴耶抄』制作の52年(77年)1月から、『密母集』刊行年の54年(79年)までの2年間に作られたのではないかと推定される。
【未刊句集『裏庭抄』全文】
裏庭抄 安井浩司句集 お浩司唐門會
姉もまた繪馬にさわり嫁ぎゆく
夕空を焼く少年も毛となれり(抹消句) (⑤『密母集』『拾遺』)
藤蔓にみろくの喉は細きかな
向日葵やおみなは砂へ沈みゆく(抹消句) (⑤『密母集』『奈落抄』)
どれも三寸の丸屋(まるや)の捨て湯かな
夕空を泣きゆくわれらの刺股よ (⑤『密母集』『拾遺』)
冬菜畠に抱けば浪魔の京という
洪水が夕空を過ぐ蛇苺
旅人が蕎麥を落とした日野の川
水晶が流れそめたる冬の谷
片蔭に隠者の母のやさしさよ
菫をぬいゆく犬の頭に大火三(たいかみ)つ
春の空鴉の子宮を閉じるべし
日曜の校庭を蛇よぎるのみ
犬つるみはじむ二番星の下
椎の丈はげしく心やける弟子よ
阿父學を草にひらけば遠の小火(ぼや)
遠足へふと馬太傳をにぎりけり (⑦『霊果』『さるとりいばら抄』)*1
あじさいの玉少年はみな家に
睡蓮に照らされ阿闍梨となる友よ
母の家またヴァイオリンの盗まれし (⑤『密母集』『秘密』)
夕空を白猫飛んでゆくらんに
少年や悉達多(しつたるた)なら笹の中 (⑦『霊果』『無窮抄』)
おおばこぐさに日枝の神社と叫びけり
螢蔓(ほたるかづら)にまひるの顔をもやしける
今日の茸をつけた柱が空中に消ゆ
獄(ひとや)へ抛うるみがきにしんの色(しき)ならん
物干臺を視る狂人のまきである
並の猫ふつ男根(なんこん)と言われたり
夏道の母が焼きおるせんべい屋
ひるづきほどの蜥蜴を投うる隣家の妻
中空をゆく白猫の怪我ならん
あじさいに隣家の蛇の匂いかな
高野山へスルメを送る女(め)なりけり
合殺(がつさつ)となる猫の手に夕の空
ふるさとは麥秋の外へゆくからす (⑤『密母集』『大鴉』)*2
冬の庭師は人無き処へ行っている
グライダアはくる山栗の卑な木なり
世阿彌忌の竹が蝉を落とすらん (⑤『密母集』『大鴉』)*3
やまどりは囮の鳥と交みたく
二階に隠れ法螺貝に煙入れてみる
賛歌(ギータ)をあゆむ教授も縞蛇も
貝の正中もって生れる女児であれ
睡蓮群に女児を出生すべきなり
梅降ると暗(あん)のごとくに妙(みょう)の妻 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
春泥や貝を開けば涅槃點
天暗くあんぱんに乗せる罌粟の種
雨よ雨よと商人は常蔭(とかげ)に入り来る
恋人よ叫びのままに鷹の塒いり(抹消句) (⑤『密母集』『秘密』)*4
なかゆびを畠に挿せばみみず来て
はたはたを父は怒り奴(ぬ)は笑う
麥秋の血は汝が首に歸らなん
鳶破れ母の家にぞ葬らる
白雲は去り栗の木に別の旅人 (⑤『密母集』『古春や』)
遠足やよぐそみねばりの花に會う (⑦『霊果』『さるとりいばら抄』)*5
川上に女を荼毘せる師ならん
蛇の尾を食うやおみなを共有し
校塔に懸る蛇へ雉子来るや (⑦『霊果』『無窮抄』)*6
きたてはのごとく自轉車負いゆく女(め)
ひいらぎに犬捕人の希薄な叫び
蓮の上に赤黒の煙は交われり
ピストルに日蔭の蛇を招くのみ
空蝉のふと空をゆく道筋かな
梔子や水よりおみなは這い来たる (⑤『密母集』『歓喜妻』)
旅人と日野椀くだるひるの川
麥秋を土人土人と往くものよ
煙草くわえ猫だきパオに住み給え
天才よ寒夜をあるくは猫の足
裏庭に時のみみずを感じる狂人 (⑦『霊果』『無窮抄』)*7
まくなぎや唖者に触らるわれも師か
【註】
* 句の後に収録句集名と章を表記してある。数字①、②…は第1句集、第2句集…の略。
*1 定稿では『傳』は新字の『伝』、『にぎり』は『握り』。
*2 定稿では『麥』は新字の『麦』。
*3 定稿では『彌』は『弥』、『蝉』は『蟬』、『落とすなら』は『落とすらん』。
*4 定稿では『塒』に『とや』のルビ。
*5 定稿では『會』は新字の『会』。
*6 定稿では『懸る』は『懸かる』。
*7 定稿では『裏庭に』は『破(やれ)庭に』。
■ 『奈落鈔』表紙 ■
■ 『奈落鈔』本文 ■
【未刊句集『奈落鈔』書誌データ】
カバー付き手製本。満寿屋製の原稿用紙を二つ折りにして表紙・見返しの紙を足し、和紙の表紙でくるんで糸で留めてある。原稿用紙の枚数は3枚(6ページ)。『奈落鈔』Ⅰ~Ⅲから構成され、全45句が収録されている。後に第5句集『密母集』(昭和54年[1979年])に収録される句が14句、第6句集『霊果』(57年[82年])に収録される句が2句あり、残り29句は未発表句。制作年度は記されていないが、『阿賴耶抄』制作の52年(77年)1月から、『密母集』刊行年の54年(79年)までの2年間に作られたのではないかと推定される。
【未刊句集『奈落鈔』全文】
奈落鈔 安井浩司句集 百漏舎版
奈落鈔(ならかしょう)Ⅰ 安井浩司
脳髄のはまひるがおの旅人よ (⑤『密母集』『奈落抄』)
柴小屋より夕空覗けば奈落妻 (⑤『密母集』『奈落抄』)
雨の空を蟲飛んでゆく茨城(うばらぎ)に (⑦『霊果』『無窮抄』)*1
旅人は来る椎の木の孔(あな)である (⑤『密母集』『奈落抄』)*2
西方の麦に他妻を視るものよ
夕空より水落ちきれずに法華妻 (⑤『密母集』『奈落抄』)
睡蓮やまひるの西施を少し視る (⑤『密母集』『奈落抄』)
沖に立つふと赤松のはらわたよ
日だまりの葛の花をふめば父母(ふも) (⑤『密母集』『奈落抄』)
此の邑は鍋にして我等肉なりき
秋の土人も夢にすぎない草の家
やまどりが燃えたる夢の甲板よ
夏谷へうどん投うらばわが淫女 (⑤『密母集』『歓喜妻』)*3
にせあかしやに犬の法華と叫びけり (⑤『密母集』『奈落抄』)
牛飼人が投げ入れる盆地にヒナギクを
奈落鈔(ならかしょう)Ⅱ 安井浩司
竹の花ふいに産婦は我を視る
白鷺が懸かるごとくに歓喜妻
空の猫ふと男根(なんこん)と言われたり
河骨のまひるの妻の奈落かな
麦の秋を土人土人と往くものよ
物干台を視る狂人のまきである
必ず庭師はやって来るかの大鴉
ばらばらに宙のきのこを視る女
中門をひらきざくろを視せる家 (⑤『密母集』『奈落抄』)
干鱈やく火を妨害する神である
藤の房も二階の翁も失せにけり
かの妻は空家へ蓮根を投げ入れき
飛込台に乞食が立てるひるのつき
台地うぐいす法華妻をくつがえす
獄(ひとや)へ抛うるみがきにしんの色(しき)ならん
奈落鈔(ならかしょう)Ⅲ 安井浩司
麦秋に遅れるはらわたも階段も (⑦『霊果』『無窮抄』)*4
ひるがおの音よわれらの甲板よ
母にして虎に附きたる麦ひとつ (⑤『密母集』『奈落抄』)
法師蝉ふと肉眼の妻である (⑤『密母集』『大鴉』)
白蛇をめとりし友の卑な爪よ
厠からふと松蔭(まつかげ)に入いる者よ
螢蔓(ほたるかづら)にまひるの甲板もやしける
夕蜘蛛も母の奈落(ならか)のひとにぎり (⑤『密母集』『奈落抄』)
空の猫にゆびを入れれば煙かな
石柱にときどき椎の血のおみな
夏草よ母が焼きおるせんべい屋
一切経へちかづく蜘蛛手の少年よ
日盛りを行けば蜘蛛手の橋がある (⑤『密母集』『奈落抄』)
よもぎぐさ盆地に人を投げるらん
ふるさとの婢は照らされて銀やんま (⑤『密母集』『歓喜妻』)
お浩司唐門会(雅印)
【註】
* 句の後に収録句集名と章を表記してある。数字①、②…は第1句集、第2句集…の略。
*1 定稿では『雨の空』は『雨後の空』。
*2 定稿では『孔(あな)』にルビなし。
*3 定稿では『投うらば』は『抛れば』。
*4 定稿では『麦秋に遅れる』は『麦秋となる』。
■ 『明母鈔』表紙 ■
■ 『明母鈔』本文 ■
【未刊句集『明母鈔』書誌データ】
手製本。本文は満寿屋製の原稿用紙を二つ折りにして切ったもの。それに表紙・見返しの紙を足して和紙の表紙でくるみ、糸で留めてある。8枚の原稿用紙を切ってあるので、裏が白の半紙が16枚である。表紙の題箋は『明母抄』になっているが、『明母-八章による五十六句-』と『殺母(さつぼ)』から構成される。全98句を収録。後に第5句集『密母集』(昭和54年[1979年])に収録される句が41句、第6句集『霊果』(57年[82年])に収録される句が4句あり、残り53句は未発表句。『殺母(さつぼ)』扉に『54.1.26』のスタンプがあり、巻末に『54.1.30』のスタンプがある。原稿は昭和54年(1979年)1月26日に仕上がり、1月30日に製本されたのだろう。安井氏43歳の作品で、『密母集』刊行直前に制作されたと推定される。
【未刊句集『明母鈔』全文】
明母鈔 安井浩司句集
明母(みょうぼ)-八章による五十六句- 安井浩司
Ⅰ
宗祇忌の顔なき人にさるおがせ (⑤『密母集』『古春や』)
我をみる賤しき葛の葉の女 (⑤『密母集』『古春や』)
黒鷺は叫びつつあり歓喜妻 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
春の海相撲は人を投げるらん (⑤『密母集』『古春や』)
樹にのぼり蛇はおのれの妻を視る (⑤『密母集』『古春や』)
旋盤にかぶさる鳶色の女(な)なりけり
ひるづきほどのとかげを投(ほ)うる隣家の妻
Ⅱ
姉ときて真竹の葉こそ厠ぐさ (⑤『密母集』『古春や』)*1
夕空へ野蔓が曲っている者よ (⑤『密母集』『大鴉』)*2
中空をゆく白猫の怪我ならん
姉よわが猿の陰茎を怖れるな
蓮(はちす)の実師はこおんなを抱きつつ
退くごとくに立つ麦秋の中心者
蓮飯や不意におみなは抱かるべし
Ⅲ
暗き河より湧きでるわが乘(じよう)のひばり
雪の高野へするめを送る婢なりけり
犬交むすべてが持続のよもぎぐさ
蛇食う人は円に非らず方に非らず
松蔭からふいに厠へ入いる者よ
月にてらされ自転車を分解する女
楤(たら)の木にやまももを接ぐ刹那かも
Ⅳ
秋の牛ふと一毛になる怖れ
性愛の黒竹の葉は踏まれけり (⑤『密母集』『歓喜妻』)
絶望の日向に翁は刈るまぐさ
犬の頭が少し見えおる秋の家 (⑤『密母集』『古春や』)
河原にくるかわらひわの陰門よ
樒(しきみ)の木かがみ尿するおみな見ゆ
空家ひらけば猫のごとくに退く神か
Ⅴ
合殺(がつさつ)となる猫の手に夕の空
般若経の女の家に韮はえて (⑤『密母集』『古春や』)
ふるさとは麦秋の外へゆくからす (⑤『密母集』『大鴉』)
芭蕉の実嗅ぎたる驢馬の終りかな
母とあゆむ土塀に垂れる蝉ひとつ
冬の庭師は人無き処へ行っている
グライダーはくる山栗の卑な木なり
Ⅵ
賤女(しずめ)より極楽蜻蛉はのがれくる
秋の島くぼにかがむ卑女(いね)も友
世阿彌忌の竹が蝉を落とすなら (⑤『密母集』『大鴉』)*3
夜の家なぜ地の餅と天の餅
赤犬交むおおばこぐさの悉く
友等きて残余の餅を喰いにけり
一毛を呉れしおみなも死ににけり
Ⅶ
山よりきて校庭にあり猫乙女
日野を来し巨人のひるの氷水 (⑤『密母集』『同異抄』)
朝(あした)意外な草刈人はおみなかな (⑤『密母集』『歓喜妻』)
草の妻ふと泥梨耶(ないりや)と呼ばれたり (⑤『密母集』『奈落抄』)
赤松の根のしのびゆく数論(すろん)の夜
妊娠女に近づく夏の蚕なりけり
来し方におみなの膣や秋あられ
Ⅷ
翁きて山に倒せる高松を
阿闍梨(アジヤリヤ)に踏まれし蛇は山の下 (⑦『霊果』『無窮抄』)*4
心経に蝉と淫女とひでりぐさ (⑤『密母集』『孔雀杳冥』)*5
遠足や空中の兜をくつがえし (⑦『霊果』『さるとりいばら抄』)
なんで自身の前へ菱餅投げる母
此の道の穴に啼泣して去る者よ
軒にきてこころ急に曲るうぐいす
殺母(さつぼ) 安井浩司 54.1.26
Ⅰ
蓼をゆく秘密身ならヴァイオリン (⑤『密母集』『孔雀杳冥』)
笹に隠れる語密(ごみつ)の友と思うべし
鳶高くなんでわれらは黒谷へ (⑤『密母集』『歓喜妻』)
秋の風黒谷黒谷吹きはじむ (⑤『密母集』『歓喜妻』)*6
やまどりは囮の鳥と交みたく
行きずりの蓮を折れば手折れて (⑤『密母集』『古春や』)
青麦をくる死ぬ筈のこおんなが
Ⅱ
燈籠の蔭から母を養う者よ (⑤『密母集』『古春や』)
性交やひるま垂れたる蔓も唖 (⑤『密母集』『奈落抄』)
秋立つや爪と泉のさようなら
眼ひらき般若をみせるあぐら妻 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
空海も葛のおみなを抱くはいま (⑤『密母集』『奈落抄』)
かの山から出てくる雲の下に母 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
涅槃西風(ねはんにし)おみなにむかう右手の魔 (⑦『霊果』『無窮抄』)*7
Ⅲ
雨の空汝が垂木(たるき)はすべて癒ゆ
奴婢若くつつじにひそむ犬殺し (⑤『密母集』『歓喜妻』)
飯尾宗祇の煙あがる瓜の家 (⑤『密母集』『古春や』)
雨の畠へ出でゆく宗祇瓜の人 (⑤『密母集』『古春や』)
俳諧の友が死ぬとき芭蕉の実
宗祇忌の地面に白瓜の皮も死ね (⑤『密母集』『古春や』)
宗祇師となる日の榎にかくれつつ (⑤『密母集』『古春や』)
Ⅳ
雨雲は来るヴァイオリンと感じる木
古春(ふるはる)や死前の飯と死後の糞 (⑤『密母集』『古春や』)
睡蓮群に女児を出生すべきなり
空海と回廊に死んでいるつばめ (⑤『密母集』『奈落抄』)
驢馬行けば遠く空(くう)なる芭蕉かも (⑦『霊果』『無窮抄』)*8
貝の正中もって生れる女児であれ
茅野をゆく老師の裏はおみなかな (⑤『密母集』『古春や』)
Ⅴ
初回の雷は犬の頭上にくだるらん (⑤『密母集』『古春や』)*9
縞蛇を連れて蓮と日を圧し
晩春の袋へ銃を挿し入れき (⑤『密母集』『歓喜妻』)
賛歌(ギーター)をあゆむ教授も縞蛇も
梅降ると暗(あん)のごとくに妙(みょう)の妻 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
秋かぜに微妙の球根をもつ者よ
ほうきぐさ立てる一人の性交者
Ⅵ
二階に隠れ法螺貝に煙入れてみる
ヴァイオリンに草刈人の歩み来る (⑤『密母集』『歓喜妻』)
あずまやに泣く天皇も天信翁 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
夏炉なら草に天皇もころがれる (⑤『密母集』『歓喜妻』)
少年来てひでりの庭を責める夜 (⑤『密母集』『歓喜妻』)
睡蓮にいくたび驢馬はくつがえる
老いたる母よ投うれば空中に菱あり (⑤『密母集』『歓喜妻』)*10
お浩司唐門会(雅印) 54.1.30
【註】
* 句の後に収録句集名と章を表記してある。数字①、②…は第1句集、第2句集…の略。
*1 定稿では『厠ぐさ』は『厠草(かわやぐさ)』。
*2 定稿では『野蔓が曲っている者よ』は『野蔓を曲げている友よ』。
*3 定稿では『彌』は『弥』、『蝉』は『蟬』、『落とすなら』は『落とすらん』。
*4 定稿では『阿闍梨(アジヤリヤ)』のルビは『あじやりや』。
*5 定稿では『蝉』は旧字の『蟬』。
*6 定稿では『吹きはじむ』は『吹きすすむ』。
*7 定稿では『涅槃西風(ねはんにし)』のルビなし。
*8 定稿では『驢馬行けば』は『きみゆけば』。
*9 定稿では『くだる』は『下る』。
*10 定稿では『老いたる母よ投うれば』は『老残の母へほうる』。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■