夕空より水落ちきれずに法華妻
これは今回発表された墨書の中でも、かなり気になる安井作品である。言うまでもなく『法華妻』という聞き慣れない言葉が引っかかるのだ。『法華妻』が、『夕空より水落ちきれずに』という、説明的なのだがなにか奥歯に物がはさまったようなモヤモヤとした上の句を引き出している。『法華妻』の解釈はさまざまだろうが、安井さんの造語だと考えて間違いあるまい。
造語でまず頭に思い浮かぶのは、安井さんのお師匠さんの永田耕衣さんである。もうだいぶ前のことだが、耕衣さんの『只今 続俳句集成』を買って読み耽ったときにはずいぶん驚いた。耕衣さんは『晩年』、『大晩年』、『最晩年』と長い長い晩年を生きられた東洋的作家だが、後期になるにつれて作品に造語が頻出するのである。
黒揚羽その鏡羽(かがみば)の虚空かな (『狂機』平成2年~3年[1990~91年])
秋空も乾空乾(かんからかん)のむくろかな (『自人』平成4年~7年[1992~95年])
虚空法身現生(ほっしんげんなま)法身忌たるらん (『未完集・陸沈考』平成7年~8年[1995~96年])
耕衣さんは晩年に道元禅師に傾倒されたので、禅的な空の認識がベースになった句が多い。しかしそれだけでは済まないのが言語芸術である。耕衣さんの造語は実に自在である。『鏡羽(かがみば)』というイメージと観念を組み合わせた造語から、擬音をあえて漢字にした『乾空乾(かんからかん)』、『虚空法身現生』という、既存の熟語を組み合わせて新たな観念を作り出す造語まで多岐に渡る。
このような造語に対しては、だいぶ批判の声があがったようだ。確かにぱっと理解できるものもあるが、考えても考えてもよくわからない、これはちょっとやり過ぎではないかと思われる造語もある。耕衣さんの造語癖は90歳を超える頃から一段と激しくなるので、老人の手すさびだという声もあったという。しかしこんな老人、他にいるだろうか。
物語を伝えることを主眼とする小説ではあまり目立たないが、俳句や短歌、自由詩では、作家が年を取るにつれて言葉が痩せていく光景がよく見られる。円熟して表現が平明になっていくのだと言えば聞こえがいいが、同系統の言葉しか使えなくなるのは明らかに創作能力の衰弱である。このような言語的(単純に単語的と言ってもいい)衰弱から最後まで無縁でいられたのは、西脇順三郎と耕衣さんくらいしかいないのではあるまいか。
多様に見えるだろうが、作家が表現したいと望む観念は、たいていの場合、本質的には一つしかない。ただ作品は観念を正確に記述するための道具ではない。論理的に説明できない多面的な本質的観念を描くためにある。そのため言語的豊饒は詩人にとって必須の武器になる。
僕は耕衣さんの方法は正しいと思う。造語は彼の作品世界を豊かにしている。失敗作をあげつらうのではなく、彼が造語で何を目指したのかを考えるべきだろう。
安井さんの造語についても同様のことが言える。ただ安井さんの場合、造語はその初期の作品から散見される。また耕衣さんのように世界を無の一如でとらえ、その諸相を造語による言語的諧謔で表現しているわけではない。安井さんの造語にはたいていの場合、観念的意味が付加されているように思う。
『夕空より水落ちきれずに法華妻』を構造的に分析すれば、雨が降りそうで降らない、あるいは夕暮れの雨雲が水滴を落としきれないのは地上に『法華妻』がいるせいである。従って法華妻は何事かを押しとどめている存在だということになる。
『夕空より』は安井さんの第5句集『密母集』に収録された句である。この句集で安井さんは初めて意識的に一つの主題で作品集を作る試みを行った。岡野隆さんの唐門会所蔵安井浩司未刊句集の分析にあるように、『密母集』では密教的なイメージ・観念が積極的に取り入れられている。万物生成の源泉であり、それゆえ死と穢の坩堝でもある密教的世界原理を女性性の喩でとらえたのである。
法華経は密教の中核経典だが、素直に受け取れば、法華妻はこの経典を信奉するなにびとかの妻ということになる。人間の妻とは限らない。『密母集』には『法華寺の空から垂れる蛇の妻』という句が収録されている。法華妻は蛇の妻でもある。以前書いたように、安井俳句では蛇は邪念と残酷の象徴であり、混乱渦巻く現世の表象である。その一方で蛇は現世を現世たるべく遣わされた神意の具象化でもある。
『密母集』には法華妻を詠んだ句がもう一句ある。『夕空へ蕎麦の高さも法華妻』である。蕎麦は決して背の高い植物ではないが、法華妻は今度は蕎麦の高さに夕空へと伸び上がっている。『夕空より』と『夕空へ』は同じ事柄を詠んだ対の作品だろう。法華妻は天上世界を希求するが、天意を押しとどめてあくまで地上に根を張りうずくまり続ける。
安井さんは『安井浩司『俳句と書』展』公式図録兼書籍収録のインタビューで、「安井浩司の俳句というものは、本当は完結しない不思議な魅力、読んでしまってから、いったいこれはなんだろうと、クエスチョンマークが付くような世界が理想なんです。(中略)だけど(中略)作品が目指す未完成な世界そのものと、軸としての独立性といったものが、どうしても少しズレてくる要素があるんです。(中略)だからこそ軸と対話ができるような気もするし、あるいはそこから慰みも得られるわけですけどね」と述べておられる。
『夕空より水落ちきれずに法華妻』は、いくら合理的に理解しようとしてもモヤモヤ感が残る作品だと思う。夕空に広がる厚い雲は、地上に雨を降らせてやりたい、恵みと災厄をもたらす豪雨を降らせたいのだがそれをこらえている。一方で法華妻は、地上の生活を差配し子供を産む豊饒の象徴でありながら、天からの恵みを受け入れずにいる。
この句にははちきれ、今にも溢れ出しそうな飽和が描かれているような気がする。それが万物の母、豊饒と汚穢を併せ持つ『密母』を描いた『密母集』の世界観というものだろう。雨は確かに降っている。降るというより染み出している。法華妻は地上に留まりながら、その聖滴を受け入れているとも読める。
「君、この句の意味、わかるかい?」と聞けば、ほとんどの人が「いや、わからない」と答えるだろう。しかし「なんとなく目出度い句だろ。湿気が、女性的な何かが、今にも溢れ出しそうな句なんだ」と言えば、何人かは「なるほど」とうなずいてくれるような気がする。色気のある作品だと思う。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■