漆山まれに降りくるわれならん
藤の実に少しみえたるけさの我
安井さんは墨書展用に書き下ろした作品について、『軸にすることで完結した世界、それ自体、自立した世界となるような作品って、あるんだなぁと実感しました』(『安井浩司『俳句と書』展』公式カタログ兼書籍所収インタビュー)と語っておられる。作品を眺め続けていると、その意図が微かながらわかってくるところがある。
今回書き下ろされた軸には、安井さん自身の肉体を感じさせる俳句がほとんど選ばれていない。たとえば軸作品で『われ・我』という言葉が表れるのは、『漆山まれに降りくるわれならん』と『藤の実に少しみえたるけさの我』だけである。墨書からは作家の息吹を感じ取れるが、安井さんが表現したかったのは作品の世界観そのものだろう。作品を通して作家が見えてくるのであって、墨書で〝私〟を主張しているわけではないのである。
少し話が飛ぶが、俳句には維新以降の自我意識文学とは相容れない特徴がある。俳句は自我意識をできる限り縮退させて世界を客観的に捉える文学である。これに対して俳句の母体である短歌(和歌)の自我意識は強かった。『道の辺の草を冬野に踏み枯らし我れ立ち待つと妹に告げこそ』(『万葉集』)など、巨大化した自我意識が荒野に立っているような印象を受ける。全盛期の平安和歌が濃厚な自我意識で満たされた夢想的文学だったことは言うまでもない。世界いっぱいまで肥大化した自我意識が物や他者を包み込んでいたのである。
しかし俳句では虚に近い位相まで縮退した自我意識が、世界内の事物を取り合わせることで心情を表現する。だから俳句作品で直截に〝私〟という人称が表れるのは稀だ。ならば安井さんの『漆山』や『藤の実』が俳句には珍しい自己主張的作品かというと、事はそれほど簡単ではない。〝私〟という人称を使わなくとも俳句では強烈な作家性(肉体性)を表現できるのである。
神近き大提灯や初詣
神慮今鳩をたゝしむ初詣
藪入の田舎の月の明るさよ
椿まず揺れて見せたる春の風
藤垂れて今宵の船も波なけん
山の蝶飛んで乾くや宿浴衣
観音は近づきやすし除夜詣
(高浜虚子『五百句』昭和12年[1937年]より)
正岡子規の高弟として有季定型写生俳句を提唱し、現代にまで続く俳壇の基礎を作った高浜虚子の処女句集『五百句』の作品である。虚子が主宰した『ホトトギス』系の雑誌は現在でも日本有数の同人数を誇っている。また虚子は初めて俳人たちを束ねた団体『日本俳句作家協会』を作った。現代でも重要な俳句作家の一人だが、俳壇における生前の虚子の影響力は凄まじいものだった。虚子は〝大虚子〟とも呼ばれる。
引用の作品は一句一句を見ていけば素直な叙景句である。しかしこれらの句には作家・虚子が偏在している。『神近き』と感じているのは虚子であり、『田舎の月の明るさ』を見ているのも虚子である。句には私や我という人称が使われておらず、作家の強い意志を感じさせる言葉もない。だが句の背後にはっきりと虚子の存在を感じ取ることができる。簡単に言えば自我意識が捉える世界が狭い。あるいは最初から、現実描写(客観写生)は自我意識の上澄みなのである。
虚子最初の句集『五百句』は、明らかに昭和のものであると言ってよいだろう。(中略)そこに自覚され、収蔵されているものは、子規、鳴雪(内藤鳴雪)、露月(石井露月)等が座を組んだ力学ではない。(中略)そこでは近代人の自我がはっきりと用意され、一人称の文学としての行動(営為)の意識が、そこに始まっていることに改めて驚かざるをえない。私達が現代俳句という呼称を欲するとき、その原点はまさにこの虚子『五百句』をもって点燈し、昨今いまだその原点を自己主張しているように思えるのである。
(安井浩司『高浜虚子私論』昭和60年[1985年])
芭蕉の死後、弛緩した主観的表現に流れていった俳句を原点に戻したのは与謝蕪村だった。彼は俳句を芭蕉の『古池や』にまで引き戻したのである。子規は蕪村から多大な影響を受けており、その写生俳句は芭蕉の『古池や』を基盤とした蕪村的純客観表現だった。虚子は子規の写生俳句を正確に継承したが、そこに新たに近代的自我意識を付け加えた。安井さんはそのことを的確に指摘しておられる。虚子文学には『近代人の自我』が、『一人称の文学としての行動(営為)の意識』がある。
子規・虚子の有季定型写生俳句は俳壇では〝後衛〟と呼ばれることもあるが、問題はそんなに単純ではない。俳句文学では、俳句の題材(作品の表現範囲・射程)を意識的に狭くすれば、自ずから強烈な作家の自我意識を表現できる。その意味で伝統俳句の方法論は安定している。長い人生の間に起こる様々な事件で作家の自我意識が動揺しても、それを一貫性のある自我意識の振幅として表現できる。いわゆる〝俳句即生活〟が可能なのだ。むしろ前衛俳句の方が作品(作家の自我意識)の一貫性を欠く場合が多い。
俳句の世界では若い頃に前衛俳句を書いていた作家が、年を取るとその理由も明らかにせぬまま黙って伝統俳句に回帰していく光景がしばしば見られる。前衛俳句を作家の述志の詩(作家固有の思想を表現する詩)だと定義すれば、それは伝統俳句でも可能である。たとえば社会性俳句をそのような詩だと定義することができる。だが多くの前衛俳句作家は述志(詩)には向かわない。新たな言葉の組み合わせによって新たな表現を創出しようとする。この意味で前衛俳句作家の作品における自我意識表現は伝統俳句よりも希薄である。自我意識は作品言語(言葉の取り合わせ・構造)によって表現されるのである。
しかしそれは極めて困難な道行きである。言葉の新たな関係性によって自我意識を表現する方法論に忠実であろうとすれば、現代詩でもしばしば起こることだが、喜びや悲しみすらストレートに表現できなくなってしまう。またそれは作家に大きな負担を強いる。新たな関係性などそう簡単に見出せるものではないのだ。ほとんどの前衛俳句作家は寡作である。
安井さんは前衛俳句作家の中では例外的に多作だが、その理由は彼の方法が短歌的と言っていいような妄想的なものだからではなかろうか。まず安井さんの自我意識がある現実を捉える。次に自我意識が肥大化してその内部に現実を飲み込んでいく。すると現実世界の内側が見えてくる。物と言葉の一対一対応が失われ言語と非言語のあわいに漂う意味とイメージの世界が現れる。安井さんはその不定形の意味とイメージを言葉にしてすくい上げるのである。
ほとんどの前衛俳句作家は言葉の新たな関係性を求めるが、言葉を自我意識の外にある客体として捉えるのでその試みが困難になる。しかし安井さんの創作磁場は完全に彼の自我意識と一体化している。全てが自我意識である世界ではもはや自我意識を意識する必要がない。選び出された言葉が自ずから作家の自我意識を表現するのである。
だから安井さんの作品には作家の自我意識(肉体性)が希薄になる。自我意識は稀に見出されて作品に顔を出すものなのだ。『漆山』の句を〝漆の木の山〟と解釈すれば青々としたイメージである。しかしこれはやはり観念とイメージ渦巻く漆黒の世界だと解釈すべきだろう。その世界生成の原初的坩堝の中から〝まれに我が降りくる〟のである。『藤の実』の句も同様だろう。藤の花は鮮やかな紫色だが実は黒い。漆黒の混沌界が現実世界に戻る際にそれが藤の実へと結実し、そこに〝すこし我が見える〟のではあるまいか。
虚子以降の伝統俳句が主観を排した客観俳句の形式を取りながら、その実、私の意識、私の生活を歌い続けているのに対し、安井作品では私(の自我意識)は世界内の一要素として見出されるものである。先ほど世界と同等に自我意識を肥大化させればもはや自我意識を意識する必要はないと書いたが、自我意識で満たされた世界では自己と他者の関係性をも相対化できる。『藤の実』に見出されるのは『けさの我』であり、それを見ているのも〝我〟だということである。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■