七月号の特集は「30年目のサラダ記念日」です。これは実に面白い特集です。対外的に言えば俵万智さんの知名度はあらゆる歌人を凌ぎます。日本人で知らない人は少ないと言っていいほど彼女は有名です。では歌壇ではどうでしょうか。ストレートに言うと俵さんは歌壇にほとんど何も寄与していません。もちろん意図的に背を向けているわけではありません。歌壇もまた俵さんに敵意を持っているということはまったくない。対外的な〝歌壇の顔〟として俵さんを大事にしていると言ってもいいでしょうね。しかし俵さんと歌壇は本質的に接点が薄い。

 

 これは考えてみると不思議なことです。俵万智さんはニューウェーブ短歌の創始者であり今の口語短歌ブームの端緒を作った歌人です。『八月の朝』連作で角川短歌賞を受賞なさった時の次席が穂村弘さんだったことはよく知られています。俵万智・穂村弘・東直子といったニューウェーブ第一世代の中核となる作家たちは一九六二年・三年生まれで同世代です。穂村さんと東さんは次の時代を担う歌壇の中堅として期待されていますが俵さんにはそういったコミットメントの姿勢がほとんどない。別格と言えば別格なのですが俵さんに「わたしは別格よ」という強い主張があるからそうなっているわけでもありません。

 

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 

 処女歌集『サラダ記念日』に収録され俵さんを有名にした歌です。俵さんの名が日本中に知られるようになったのは言うまでもなく『サラダ記念日』が三百万部近く売れたからです。歌集一冊の売り上げとしては今までで最高でしょうね。話は脱線しますが版元は河出書房新社で誰もあの本がベストセラーになるなんて思っていなかった。一般企業と比較すれば中堅・大手出版社はどこも零細で河出さんは「短歌」版元の角川グループよりも小規模ですからそれはそれは大変な騒ぎだったようです。零細出版からベストセラーが出ると営業社員は過労死寸前まで追い詰められることもあります。ただあの年の河出書房のボーナスは十二ヶ月分出たという噂を聞いたことがあるなぁ。すさまじい社会現象でした。

 

 本題に戻ると当時『サラダ記念日』を読んだわたしたちは面白いけどなんでこれがベストセラーになったんだろうと思いました。読書界では稀にある読者の気まぐれだろうと思ったわけです。片山恭一や中野独人という名前を聞いてすぐにその著書を言える人は少ないと思います。『世界の中心で、愛をさけぶ』と『電車男』の著者です。わたしたちは『サラダ記念日』もそういった気まぐれベストセラーの一冊だろうと軽く受け流したわけです。しかしその判断はいい意味で間違っていました。短歌界は俵万智的な口語短歌の方に進んでいったからです。しかしそれを実際に牽引したのは俵さんではなく穂村さんでしょうね。

 

 俵さんの師が佐佐木幸綱さんなのは言うまでもありません。当時の角川短歌賞の選考委員は篠弘・武川忠一・岡井隆であり最も俵作品を推したのは篠さんだったとご自身が特集号の論考「サラダ記念日はどう現れ、どう読まれ、評価されたのか」で書いておられます。塚本邦雄も俵作品に好意的だったようです。奥村晃作は「地べたを這うような低い世界かもしれぬが、これが本当の日常であり、生活であり、わたしたちがふつうに、しんじつに生きて行く世界であろう」と評価し高野公彦はその逆に「生の飢餓感の欠如が、作品を(ゆる)いものにしてゐる」と批判しました。奥村・高野さんの論評には今の口語短歌に寄せられる賛否のエッセンスが表現されています。俵さんが口語短歌の初源である由縁です。

 

 つまり『サラダ記念日』が出版された昭和六十二年(一九八七年)には多くの年長歌人たちが漠然とであれこれから起こるであろう短歌の変化を予測していたことになります。にもかかわらずある意味ポスト俵万智である穂村弘さんは口語短歌の旗手として様々な批判にさらされそれと戦うことを余儀なくされました。ただちょっと語弊のある言い方かもしれませんが俵万智は何を書いても許された。無傷で現在まで活動しておられると言っていい。

 

 別の言い方をすると、私は、ものごとを肯定して見たいという気持ちがずっとあって、これは自分のタチですね。全肯定の歌ばかり、いっぱいつくりたいぐらい。『サラダ記念日』が出たとき「否定精神がない」と言われましたが。

伊藤 文学は否定精神、というわけですね。

 そのときは、やっぱり物事を批判的に見る目がないと文学じゃないのかな、と思ったんですけれども、これは自分のタチなので、否定はどなたかにお任せして。むしろ、全肯定の歌ってあんまり無いんです。

(「俵万智ロングインタビュー 『サラダ記念日』前夜から三十年を振り返って」聞き手 伊藤一彦)

 

 特集掲載の伊藤一彦さん聞き手のロングインタビューで俵さんは「全肯定の歌」を作りたいと述べておられます。そのような向日的な肯定性が俵さんの短歌が愛される理由になっているとは言えます。ただこの全肯定は意外と厄介かもしれません。俵さんが全肯定に裏の意味を込めているからではないのです。むしろぜんぜん裏がなくある意味表面をなぞるようなサラリとした全肯定だからです。そのため俵さんの歌を深く読みそこから短歌全般に寄与するような何事かを引き出そうとしても歌がスルリと逃げていってしまうようなところがあります。

 

万智(まち)ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

『サラダ記念日』昭和六十二年(一九八七年)

   *

こうなってしまったことのほんとうの悪いひとたち現場におらず

知れば知るほどむしろありえることだったこれまでがただ幸運だった

都合悪きことのなければ詳細に報じられゆく隣国の事故

『海と船』平成二十六年(二〇一四年)

 

 『海と船』は韓国で起こったセヴォル号沈没事件を詠んだ歌で俵さんには珍しい社会詠です。俵さんご自身がインタビューで「原発とセヴォル号は構造が一緒じゃないかと言ったら、それで終わっちゃう。だからその一つずつの要素を、固有名詞を消して読者に渡すことで、読んでいくうちに、これ原発と一緒じゃない? と、私がたどった思いを共有できたらいいかな」と思って作ったとおっしゃっています。

 

 ただ俵さんの社会詠には怒りや悲しみといった激しい感情が込められていません。「ホントに悪い人たちは現場にいないんだよね」「起こるべくして起こった事故だったんだ」「人ごとだから色々言えるんだよ」といった普通は冷めてるねとも揶揄されるような淡々とした叙述です。それは就職して学校の先生になって「へぇ万智ちゃんを先生と呼ぶ子たちがいるんだ」と熱もなく思った時の感覚に近いようです。Very俵万智の全肯定表現と言えるかもしれません。

 

女の子も育てたかったこの島にハルちゃんモモちゃんの声忘れない

あと三日で引っ越しをする我が部屋に子供七人日常として

愛された息子と思う空港には二十四人の見送りの来て

三十日前まで小学生だった子らが懸命に住む男子寮

相部屋の感想聞けば「鼻くそがほじれないんだ。鼻くそたまる」

ふいうちでくる涙あり小学生下校の群れとすれ違うとき

コンビニでおやつを買って送ることそれが私のしてやれること

あす会えるあした会えると思うとき子を産む前の夜思い出す

シチューよし、高菜漬けよし、週末は五合の米炊いて子を待つ

梅雨近き紫陽花の空 大量の洗濯物を我は喜ぶ

新作50首「未来のサイズ」

 

 俵さんは宮崎県仙台市に住んでいましたが東日本大震災をきっかけに石垣島に移住されお子さんの進学にともなって今は宮崎市に住んでおられます。ちなみに未婚の母です。ちょっと小説家の柳美里さんと重なってしまうような履歴ですね。ただ柳さんが私小説系の作家らしくすべてにおいて大騒ぎなさったのとは対照的に傍目には激動に写る俵さんの人生は静かです。ご本人のエッセイなどを読んでも自然にそうなっちゃんだよねといった雰囲気が伝わってきます。これも俵万智さん的全肯定なのでしょうがスルリと抜けて中心が移動してゆく肯定性でもあります。

 

 比喩的な言い方になってしまいますが俵さんの写真は記憶に残ります。おかっぱで少女っぽい雰囲気が漂います。今年で五十五歳におなりですが少女の面影はずっとあります。この比喩的に言う〝永遠の少女歌人の万智ちゃん〟は普通なら大きな軋轢が生じるような社会的規範をなんの熱もなくまたさしたる抵抗にも遭わずにスルリと抜けてゆく。それが許されている希有な表現者でもあります。俵さんがどんな人生を辿ろうとも今後もそれは変わらないでしょうね。

 

 吉本隆明は俵さんについて「この人は、本当に自分を特別な人と思ってない。どう読んでも、そうとしか思えない」と書きました。生真面目な吉本さんが首を傾げている姿が浮かんでくるようです。だけどそれは吉本さんが俵さんにある大きな欠落を感じたということでもあります。俵さんは特別な作家でありご自身はその特別という感覚を欠落させておられる。

 

 この非常に微妙で大きな欠落性は穂村弘さんにも確実に指摘できると思います。ただこの特別な欠落性を俵さんは自分一人のために使い穂村さんは短歌史に重なる形で表現しておられる。俵さんが無傷で穂村さんが傷つく由縁です。ただ口語短歌の初源にその資質に深く根ざした欠落を抱える優れた歌人二人がいらっしゃるのはとても面白く興味深いことだと思います。

 

 本当のことを言えば口語短歌と呼び得るような一定の表現様式など存在しないのです。前衛短歌にいかなる形でも統一様式がないのと同じです。実際俵さんには〝作品概念〟として文語体を排除している気配がまったくありません。口語短歌を支えるのは特定の作家であり特定作家の作品から演繹してある様式が存在するかのように見えるだけのことです。つまり口語短歌はグループとしては存在し得ない。一定グループというコロニーを作った時点でそれは文学の問題ではなくなります。資質の裏付けのない表現は弱い。

高嶋秋穂

 

 

 

 

■ 俵万智さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■