
第71回角川短歌賞発表号です。応募総数は708篇。予選通過35作品の作者名と年齢も掲載されているのですが十九歲から六十一歲までと幅広い。中心は二十代から三十代歌人。短歌は比較的若い人たちを惹きつけ続けていますね。これは口語短歌・ニューウェーブ短歌の大きな功績です。
記憶という湖に手を浸さんとすれば魚の黒きかげ見ゆ
死というはわれに至ると知りてのち夕焼けは空の異形と思う
船田愛子「雪の影」50首より
受賞作は船田愛子さんの「雪の影」50首です。略歴に二〇〇四年生まれとありますからまだ二十一歲の歌人です。前年の第70回角川短歌賞は佳作で京大短歌会所属。伝統短歌に属すると言っていい文語体作品です。このところ口語現在形のニューウェーブ短歌が新人賞を受賞することが多かったのでようやくバランスが取れて来ましたね。「雪の影」を読むと船田さんは十代の頃に大病を経験し医者を目指して勉強中だということがわかります。短歌の場合はまずフィクションということはないでしょうね。
二首とも叙景歌ですが死の不安が背景にあります。切迫したものではありません。個人的体験として死を身近に感じ医者という職業を選んだことで他者を含む人の死を意識せざるを得ない作家の内面が淡々と表現されています。この連作に関しては死が客体化して捉えられています。
雪には雪の時間ありて山茶花の葉に積もりゆきやがてこぼるる
中庭の白木蓮に寄るひとに花芽の影の淡くうつりぬ
図書館のロビーに硝子窓ありて雲ながるれば影の過ぎゆく
神代にも病はありや体温をもつわれらに雪のつめたし
夕暮の川の面にふる雪のみなほどけては川底に至らず
このごろは人を思うこと少なくてみず凍りつつ水車は回る
この夜が何かの前夜であることの 眠れば冷えてゆく足の指
薄れゆく記憶を夢は引きいでて夢にみる人をわれは恐れつ
藪椿の盛りの庭を歩みきて生きながらうることを望みき
ふる雪に影あればこの坂道をゆきたし影のみな消ゆるまで
過去のわれを他人とおもう他人なれば慈しみときおりは羨む
金彩の花瓶に水を満たしたり不死の病のあらば恐ろし
昼も夜も星々は燃ゆその果ての死にわれらはときに立ち会う
水仙の香りのような耳鳴りのあとに来るのだろうわれの死は
同
人の生には死という影がつきまとうことが表現されています。しかし諦念ではありません。「夕暮の川の面にふる雪のみなほどけては川底に至らず」にあるように死は人間には決して捉えられません。死は恐ろしいのですが不死もまた恐ろしい(「金彩の花瓶に水を満たしたり不死の病のあらば恐ろし」)。また人は単に死にゆく存在ではありません。不可知の死に向かう間に「星々は燃」え「水仙の香りのような耳鳴り」がし続ける。
死の影をテーマにしているため「雪の影」連作にはほとんど他者が登場しません。作家の自我意識が捉えた外界が内面化され表現されています。基本自己の内面を探る重いテーマなのですが歌は軽く淡い。伝統的短歌技法なら絶唱系の抒情表現に持ってゆく方法もあるわけですがそうなっていない。そこにこの連作の新し味があるのかもしれません。
口語の現在形は幸福を表現するのに適した書法です。それに対して文語体の過去形は悲嘆の絶唱で大きな力を発揮します。ただ今の短歌界で主流になっているこの二つの書法はかなりステレオタイプ化しています。それを抜ける方法はいくつもあると思いますが「雪の影」連作はそれを示唆しているのかもしれない。客観が解体するような客観まで突き進んでいっていただきたいですね。
投函は落下 書いたことよりも書かないことのために便りは
千代田らんぷ「待ち合わせ」連作50首より
千代田らんぷさんの「待ち合わせ」50首は次席作品です。昭和六十年(一九八五年)生まれの作家ですから今年四十歲。大変申しわけないのですが典型的なニューウェーブ短歌の書法でまとめられています。決定的な心情や事件を決して書かない書法ですね。この書き方ですと「雨傘は雨に出会って雨傘になりその後は雨を弾いた」といった作品の方が秀作ということになる。修辞の活用というか現代詩的に頼っています。それが新しいかどうかが評価ポイントになります。ただ修辞的新しさは相対的なものです。修辞は時代ごとに新しさに対する感覚があっさり変わる。大前提として〝すべて書いてしまう〟という道筋もあります。書き方は表現内容を縛るわけですがそのあたりの制約をどう抜けるかですね。
どの人もうつむきながらそれぞれの未来へ消えるメトロ入り口
伊藤汰玖「ノット・オーバー」佳作50首より
きみとゆく先々で渡る橋があり橋はどこへもわれらを導かぬ
大津穂波「次の季節」佳作50首より
伊藤汰玖さんの「ノット・オーバー」と大津穂波さんの「次の季節」五十首は佳作に選ばれました。千代田さんと同じくお二人ともニューウェーブ系短歌。失望と諦念のような感情が表現されているわけですがこの書き方だとto be continuedにならざるを得ません。他者の「それぞれの未来」はわたしのそれと同様に具体的なもとしてあり「橋」を渡れば少なくとも今いる場所から次の場所に移動する。決定的表現の方が優れていると言っているわけではありません。しかし人間の持ち時間は少ない。繰り延べてばかりいることはできません。それに固執すると表現がどんどん苦しくなる。
鶴山裕司
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