
「短歌研究新人賞」発表号です。受賞作と次席作だけでなく候補作も掲載されています。とてもいい方針ですね。ただほぼ全部の作品が口語短歌でいわゆるニューウェーブ短歌系です。「短歌研究」さんは実質的にニューウェーブ短歌の牙城になっているようです。もちろん伝統的文語体作品でめぼしい作品がなかったのかもしれません。
珍しいクラゲが死んでしまわないうちに放送枠があるかだ
「およそ15人」と打ってすぐに消すみんな整数として生まれた
あの人に添えた言葉をこの人に添えても凪いでいるなら時効
百枚の名刺すべてに書いてあるキャスター(契約)の文字
霧島あきら「正しい椅子」
受賞作は霧島あきらさんの「正しい椅子」。引用四首は受賞作冒頭ですが最初読んだときなんのことがわかりませんでした。最後まで読んでどうやら霧島さんは放送関係のお仕事をしているのだろうという当たりがつきました。しかし略歴の肩書きは主婦。フリーランスのアナウンサーかレポーターのお仕事をなさっている(いた)ようです。
「受賞のことば」で霧島さんは「自身の分厚い殻を破りたい、その第一歩として挑戦したのが今回の連作です」「日々を過ごすうちに薄れてしまう記憶を、確かに自分の心を掠めていった感触を、短歌という詩型は受け止めて輪郭をもたらしてくれました」と書いておられます。作歌動機はわかるのですが歌としてはどうかな。
霧島さんの作品に限らないのですがどの作品も一首の完結度が低い。例えば「珍しいクラゲが死んでしまわないうちに放送枠があるかだ」一首だけを読んで作者は放送局で仕事をしていて水族館の珍しいクラゲを取材してニュースで流す予定なのだがほかのニュースとの兼ね合いで放送できるかどうかわからないとすぐに理解できる人はほとんどいないと思います。言いにくいのですが短詩という形式が持っている最大の富(衝撃)を活用できていないように思います。
意味的には二つの流れ。①水族館に珍しいクラゲが展示されたので取材するよう上司から命じられた。②撮影したのだが放送枠(放送時間)があるかどうかわからない。ここで歌は止まっているわけですが③それについて作者がどう思ったのかは不明です。従来的短歌と言いますか古典短歌は③を表現の焦点にして来たわけです。そうすると①②は必然的に抜け落ちる。しかし今流行の書き方は①②の瞬間を捉えることに向けられているようです。
「百枚の名刺すべてに書いてあるキャスター(契約)の文字」についても同様。この一首だけで作者が表現しようとしている感情を捉えるのは難しい。「ボーナスをもらってみたし新卒の同期は小鳥の声でこぼす」「祖父ほどの齢のひとは搾取だと息巻くわたしの処遇を知れば」「でも椅子は椅子であなたの声を聴くためにわたしが勝ち取った椅子」などの歌を読んで初めてフリーランスの内面がうっすらと伝わって来る。正社員より劣る不安定なフリーランスの待遇とそれでも「勝ち取った椅子」というアンビバレンスな感情がいわば詞書ナシで表現されています。
何度か「正しい椅子」連作を読めば作者が何を表現したいのかはわかります。ただ歌はたいてい「あるかだ」「生まれた」「時効」「文字」「待ちおり」「させる」「気象情報」と口語体の現在形か体言止めで終わっています。口語・文語の問題ではなくこれを過去形にすれば歌はガラッと変わるはずです。
文字表現は絶対に現在――今この瞬間――から遅れます。作者は自己の過去を言語表現します。過去を現在形で表現すれば霧島さんが「受賞のことば」で書いておられる通り一瞬の「薄れてしまう記憶」「自分の心を掠めていった感触」を表現することができる。ご自分の歌に対する正確な認識を持っておられる作家です。ただそれは「薄れ」「掠め」てしまう淡い表現になりやすい。
〝書き方〟は絶対的です。すごく乱暴なことを言えば「楽しさ」や「喜び」は現在形と相性がいい。それは永遠に続いて欲しいものであり現世の上方にあるユーホリックな観念――楽しさ・喜びは儚いものですから――に言語表現のベクトルが向かうからです。それに対して「悲しみ」は過去に向かう。過去の営為すべてが現在の悲嘆を生んでいるからです。
広義の悲嘆を現在形で表現しなおかつ伝統短歌との差別化を図れば歌は意図的に作者の実生活を排したエアポケットのような抽象的風景・人物描写となりその空虚によってネガティブな感情を表現するようになります。いわゆる前衛的なニューウェーブ短歌の書き方はおおむねこの方法です。流行の口語体ですが霧島さんの短歌は作歌動機としても意味伝達内容としても古典的です。それが高く評価されたのかもしれません。
鶴山裕司
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