
国文学者で吉川弘文館から『藤原俊成 中世和歌の先導者』と人物叢書『藤原俊成』を刊行なさった久保田淳さんと歌誌「かりん」で俊成論を連載中の馬場あき子さんの特別対談が掲載されています。学者という肩書きはお持ちでないですが馬場さんが古典文学の碩学であるのは周知の通りです。馬場さんの実作者ならではの知見と直観に裏付けられた評論には学ぶべきものが多い。
対談題材の「右大臣家百首」は九条兼実の家で催された百首歌の会で俊成が詠進した歌です。家集『長秋詠藻』に収録されました。よく知られているように兼実は藤原清輔を歌の師としていましたがその没後に俊成を師として迎え入れた。歌論家としては清輔の方が遙かに優秀で精緻です。が兼実は清輔没後により斬新な俊成の歌風をも取り入れようとしたようです。源平争乱直前の時期に詠まれた百首です。「右大臣家百首」は兼実に求められたいわば正装の歌ですが馬場さんはその源泉を「述懐百首」に措定しておられます。
馬場 そうなんです。心をテーマにした歌をいっぱい作るでしょ。〈世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる「鹿」〉はもちろんそうですけれども、〈さりともと思ふ心も虫の音も弱り果てぬる秋の暮哉「虫」〉も、こういう執着は「述懐百首」からずっと生まれてるわけなんです。『新古今』の〈うき身をばわれだにいとふいとへただそをだにおなじ心と思はむ〉(「述懐百首」「片思」→新古今・恋歌・二・一一四三)、これなんですよね。俊成の面目って。俊成はこういう歌い方の類歌がいっぱいあるわけですよね。例えば〈思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけん折ぞ恋しき〉(久安百首))、〈いかばかり我を思はぬ我が心我がためつらき人を恋ふらん〉(同)とかね。
馬場さんの読解に沿うとちょっとくどくて退屈な印象のある「述懐百首」に新たな光が当たってゆくのを強く感じます。
春日野の松の古枝の悲しきは子日にあへど引くひともなし
何事を我歎くらん星合の空を見るにも満つる涙かな
水の上にいかで鴛鴦の浮かぶらん陸にだにこそ身は沈みぬれ
「述懐百首」はいっけんなよなよした歌ですが視点を変えればそうではなくなる。馬場さんも「私も、最初は「述懐百首」が嫌で、読んでいるうちにもう飽き飽きして、もういいよって言いたくなるんですね。ところが、あらためて読みますと、実に魅力的で。これを老年まで引いているなっていう感じですね」と語っておられる。
ああ馬場あき子だなと思います。この方の精神は老いることなく常に新たな発見を求めておられる。俊成「述懐百首」を読み直すことでご自分の晩年の歌風を模索しておられる気配です。では「述懐百首」は俊成晩年の歌にどのように繋がっているのか。
馬場 もうひとつ俊成の歌ですが、〈あひ見ても夢かとのみぞたどらるる嬉しきことは現ならじを「初蓬恋」〉嬉しいことは現ではないからこれは夢なんだと思うしかない、とかね。だから夢も、鹿の声も、氷を見ても、煙を見ても、歌枕を見ても全部これが述懐に繋がっていくっていうか、視野にある対象を見ながら、述懐を詠む。なかなかできることじゃないと思うんですけどね。芯が強いというか、大変な人ですね、この意志の強さでやって行かれたら勝てないなあっていう感じですよね。
そういうのが次第に心の微妙な変化の魅力というものを歌うことになっていく。それがことに晩年に行く従って。俊成は女の人の恋の歌をよく勉強していったのじゃないかと思うんですね。女流の恋の歌における心の変化というところを、自分の作品に取り入れていく。「述懐百首」があるところにいちばん近いのは女の恋の歌だと思うので、恨みとか疑うとか。
「「述懐百首」があるところにいちばん近いのは女の恋の歌だと思うので、恨みとか疑うとか」という指摘は大変重要です。またそれは歌の本質だと思います。
大変乱暴なことを言えば短歌に限らず俳句や小説や自由詩の世界で威張っているのは明らかに男の作家が多い。まったく根拠がないわけではありません。各時代で表現の基盤を整理し作品に序列をつけるような観念的基盤(パラダイム)を作り出すのは男性作家が多いからです。そのため男性作家が○○壇の中心にいるように見えてしまう。
しかしこれも乱暴なことを言えば短歌と小説は本質的に〝女の書き物〟だと思います。俳句や自由詩の核は観念で男性性が際立ちますが短歌と小説はそうではない。人間の内面をとことん抉り出すからです。内面の豊富さで男が女にかなうわけがない。男性作家は女性作家の作品に学ばなければにっちもさっちも行かないところがある。
馬場さんは男性中心の歌壇の中にあってはっきりと〝馬場あき子時代〟を作り出した男勝りの歌人です。でもそれは男たちの作り出す観念的基盤(パラダイム)に寄り添ったからではない。ある意味昨今のフェミニズム風潮に棹さすような女性性原理――生物学的に男性か女性かという意味でではなく人間が持っている男性性と女性性ベクトルのこと――を押さえておられるから歌壇の中心となり得た。
馬場さんは今年で九十七歲です。まったく余計なお世話ですがもし馬場さんがお亡くなりになったら歌壇はどうなってしまうんだろうと考えることがあります。ニューウェーブ短歌系の歌人たちに強くセクショナリズムの気配が漂っているのが非常に気になる。作家は絶対に自己のエピゴーネンを称揚してはならない。
結社「かりん」の主宰ですが馬場さんは公平さを保っておられる。壇と呼ばれるフィールドの中で歌壇が一番バランスが取れている理由に馬場さんの存在があると思います。良き伝統としてそれが引き継がれるといいですね。
鶴山裕司
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