三田文學_No.014_01

 

 

 朝吹亮二と川上未映子が詩を載せている。今までにも詩の掲載はあったわけだが、三田文学は詩と縁が深い雑誌だった、とふいに思い出した。そもそも三田は西脇順三郎以来、詩人を輩出しているので、当たり前のことだ。それをなぜ今まで忘れていたのだろうか。

 

 長らく三田文学は、商業文芸誌をなぞるような、すなわち二流のジャーナリズムの様相を呈してきた。文壇の下請けの役割を果たすのは、それを望む書き手や読者を抱えているならば必ずしも悪いことではないが、そこにインサイダー取引きの匂いがするのは品がなさすぎる。三田らしさを失っているようにみえた、というのはそういうことだった。

 

 三田文学が三田らしさを取り戻したのかどうか、それはわからない。目次を眺めても、どこがどうというほど顕著な変化はないし、またある必要もないだろう。ただ、そこはかとなく変わった。ともあれ、それで十分だ。微かな変化は、何事かが取り急ぎ排除されたためにすぎず、またそれに変わる何かの都合が目につくようになるのかもしれないが。

 

 二つの作品そのものからというわけではないが、少なくともこの詩人二人の名前の並びに、昔の三田の雰囲気が漂うことも確かだ。二流文芸誌にありがちなコンセプトの見えない全方位の一環として、詩が刺身のツマとして置かれている感じではない。かといって、重きを置くというほどの意気込みでもない。

 

 この意気込みのない淡々とした感じ、そのあるがままの重量や経緯に従い、首を傾げるほどの偏向もしない、というのが三田だった、と思い出したのだ。ないない尽くしで不甲斐ないようで、それでもどこかに凜としたところがあればいうことはない。その踏み絵として、詩への扱い方はある。

 

 朝吹亮二は、三田の血脈から言えばサラブレッド中のサラブレッドだが、もちろん詩人として三田が誇っていい。川上未映子は作家だが、詩人として最初にデビューしたことから、かつての金井美恵子や富岡多恵子を少し思い起こさせる。朝吹亮二の娘もたぶんあまり年齢の変わらない若い女性作家であることも重なると、この二人の名前の並びは何か微笑ましい気もする。

 

 ただ作品そのものでなく、これらの名前の持ち主の来し方といった文脈で読むしかないところに、今の詩が置かれている状況はある。三田文学であろうとなかろうと、詩誌も含めた既存の文芸誌はそれを見守るしかない。状況に踏み込み、変えてゆく力はないのだ。

 

 「現代詩」とかつて呼ばれた書き方を出ることのない二つの詩は、期せずして同じテーマである。すなわち恋愛、性愛、それを前提とした私とあなた。そもそも「現代詩」の書き方では、どんな思想も表現できなくなっているのではないか。「現代詩」の書き方が読者への伝達性はもちろん、書き手間の共有性すら失った今、古来からの最も普遍的なテーマにのみ限って書かれようとするのは、最低限の知性の選択なのだろう。

池田浩

 

 

 

 

アンドレ・ブルトンの詩的世界 (慶應義塾大学法学研究会叢書 別冊(16)) あこがれ

 

 

 

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