山本俊則さんの美術展時評『No.050 高松次郎 ミステリーズ』をアップしましたぁ。高松次郎さんは、昭和11年(1936年)生まれで平成10年(1998年)に62歳でお亡くなりになった現代美術家です。日本におけるコンセプチュアル・アートの先駆者のお一人です。山本さんは、『次郎さんくらい美術館での回顧展がしっくりこないアーチストはいない。(中略)高松次郎は本質的に作品について考える(見る者に作品とは何かを考えさせる)作家だった。彼は変化する〝作品思考(試行)〟そのものであり、その都度〝作品の影のような作品〟を作り出した』と書いておられます。

 

石川もそうですが、文学を含む戦後の前衛芸術運動の熱気をある程度肉体感覚として捉えることができた世代は、若い頃に多かれ少なかれコンセプチュアル・アートの前に立ち止まったのでした。それは貴重な前衛実験だったと思いますが、先に進むためには大胆な総括も必要です。山本さんは、『多くの人が美術館で、なんの変哲もない木切れや石ころがアート作品として展示されているのを見て困惑と落胆を感じたことがあるだろう。当然の反応だと思う。しかしそれは、不可能を可能にしようとした夢の残滓である。夢が大きく、美しくあればあるほど敗北は残酷になる。それをくだらない、醜いと受け取る人々をコンセプチュアルアートは拒まない。その残酷さが過激であることを願い、それを見た人の心の片隅に残像が刻みつけられるのを期待するだけである。また廃虚を美しいと感じる人々もいるだろう。そのような美の感受性はアートを見る目を変えるはずである』と批評しておられます。

 

山本さんはまた、『僕が一番好きな次郎さんの作品は、『影(新視覚辞典)』のように図と言葉が細々と書き込まれたドローイングである。露骨な言い方をすれば、コンセプチュアルアートは労多く実り少ない仕事である。自分でもどうしようもないある観念に取り憑かれた作家でなければコンセプチュアルアーチストにはなれない。また少しでも仕事が社会に認められるまでには長い時間がかかる。それは孤独な作業だ。骨の髄まである観念に取り憑かれた作家しか仕事を続けてゆくことができない。しかし高松の細々とした描き込みのあるドローイング作品には彼の愉楽が溢れている』とも批評しておられます。難解なアーチストに思われていますが、高松次郎は生粋の美術家でした。じっくりお楽しみください。

 

 

山本俊則 美術展時評『No.050 高松次郎 ミステリーズ』 ■

 

 

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