ラモーナ・ツァラヌさんの連載エセー『交差する物語』『No.024 松浦(下)』をアップしましたぁ。ラモーナさんの、世阿弥作『松浦之能』研究のための九州旅行第3弾完結編です。今は情報化時代ですから、遠く離れた土地でも居ながらにしてけっこうな量の情報を集められます。ビジュアル情報を簡単に得られるのが前時代との大きな違いで、Google様のストリートビューなどを使えば、町のたたずまいなども何となく知ることができます。

 

ただ行ってみなければわからないのがその土地の匂いや言葉などの音、それに肉体で感じる土地の起伏などです。ラモーナさんは鏡山登山を敢行されたわけですが、『道の両側に咲いていた水仙が目に入った。思わずハッとした。・・・水仙は水鏡に映る自分の顔に惚れた美少年ナルキッソスの名前から、ナルシスと呼ばれる花である。それが鏡と深い縁のある鏡山神社の境内に生えていることに感動した。午前中に訪れた虹の松原が頭に浮かんだ。あの名所の名前も、駄じゃれのような言葉遊びを隠しているのではないだろうか。ただの思い込みにすぎないかもしれないが、鏡山の辺りでは何もかもが意味を持っているようで、その意味に気付く度に嬉しかった』と書いておられます。

 

ラモーナさんは松浦佐用姫について、『取り残された恨みと悲しみで最後に入水してしまう。この結末はどこか不釣り合いで、不自然としか思えない。「松浦」というタイトル自体が「待つ」ことを暗示しているのに、なぜ主人公は海に身を投げてしまうのだろうか。この矛盾はどこから発生しているのか?』と書いておられますが、日本の古典文学では漢字で掛詞を作ることがしょっちゅう行われています。『松』は『待つ』の縁語なのです。『鏡山の辺りでは何もかもが意味を持っている』といふのはその通りで、日本古典文学は過去の記憶の引用の織物といふ側面がありまふ。

 

ヨーロッパももちろん厚い文化的歴史を持っていますが、その一方で大航海時代以降、未知の領域の開拓に乗り出してゆきました。歴史のないアメリカなどは、様々な分野で今も未知の領域の開拓を行うのを文化的特徴としています。しかし日本を含む東アジアは、少なくとも江戸時代までは後ろ向きの探求姿勢を持っていました。学者たちは四書五経を中心とする中国古典漢籍に世界の真理があると考え、文学者たちは日本文化の神髄は記紀や『万葉』を中心とする古典文学にあると考えていたわけです。そのため日本の古典文学作品は、オリジナルに見えてもその背後に古典文化を据えていることが多い。こういった文化的特性はけっこう根強いものでせうね。

 

 

ラモーナ・ツァラヌ 連載エセー 『交差する物語』『No.024 松浦(下)』 ■