No.022_交差する物語_01

 

 

 能〈松浦〉の研究を始めてからちょうど1年間になる。ゼミの参加者はそれぞれ一つの能作品を選んで、上演の歴史から詞章の変遷まで、色々な視点から作品について研究報告をすることになった。私は思い切って世阿弥自筆本の〈松浦之能〉を選んだ。〈松浦〉は江戸期以前から長い間上演されなかったが、近年復曲され、現在は観世流のレパートリーに入っている演目である。

 

 〈松浦〉を選んだ理由は、世阿弥が愛した「鏡」のモチーフがこの曲で使われているからである。能〈井筒〉で水鏡に恋人の面影が映り、〈野守〉の鏡が地獄の有様を映し出すように、世阿弥の能における鏡はすべて不思議な道具なのだ。〈松浦〉に出てくる鏡もそれを見る者の顔を映さず、主人公の心に浮かぶ人の面影しか映さない特別な鏡である。

 

 能〈松浦〉は松浦佐用姫の物語を題材にしている。伝説では佐用姫は夫の大伴狭手彦と離別した際に、彼から形見として鏡を与えられた。狭手彦が勅命によって唐土へ出発した日、佐用姫は松浦潟の近くにある山に登って、泣きながら狭手彦が乗っている唐船に向かって衣の領巾(ひれ)(白いヴェールのようなもの)を長く振り続けたと言われている。世阿弥の能では、佐用姫は悲しみのあまり狭手彦にもらった鏡を抱いて入水してしまったと語られている。

 

 「愛する人に大切な形見を残されたのに、どうして自殺なんてするのですか?」と、私はこの能の主人公である佐用姫に問いかけてみた。〈松浦〉の研究をはじめた時、これが一番大きな謎だったからだ。『万葉集』巻五にはこの能と深い関係がある松浦川をテーマにした歌が掲載されているが、佐用姫の鏡に関しては一切触れられていない。また『肥前国風土記』に見える伝説では、彼女の不注意で鏡だけが川に落ちてしまうのだ。それが「鏡の渡り」という地名の由来になったとされる。

 

 当たり前だがドラマがないと演劇として成り立たない。だから世阿弥は演劇的に面白い、失恋によって入水する女の姿を入れて佐用姫の物語を脚色した、という仮説は容易に思い浮かぶ。しかし世阿弥という能作者はそのような脚色をしない。題材になる物語の正統性に非常にこだわる作者で、彼が能に使った素材は全てあの時代に権威のあった資料に基づいている。なので佐用姫の物語があのような結末を迎えるのは、世阿弥の時代に一般的にそう思われていたからに違いない。では作者は何を参考にしてこの能を作ったのか?その答えを見つけ出すのが私の課題だった。

 

 作品研究を行う時、作業は現存する写本の比較から始まる。〈松風〉や〈葵上〉などのように昔から人気で、ずっと上演されてきた曲の場合、残っている本の数は40~50種類を超えている。その中から現在まで影響を及ぼしている本を選び、詞章の移動を細かに整理・比較するのは大事な作業だが、とても手間がかかる作業でもある。〈松浦〉は早い段階から上演されなくなった曲なので、残っている本は少ない。面倒な作業が減るわけだから、怠け者の私にはいかにも都合のいい状況だった。

 

 しかしその反面、先行研究も比較的少ない。参考にできる研究はあるが、自分が探している答えを見つけ出すためには、結局は調査をゼロから行わなければならないのだ。〈松浦〉を選んだのは自分だから、やるしかないと思った。その時から佐用姫の姿を追いかけて、中世説話の世界に迷い込んでしまった。

 

 現在の佐賀県の唐津市を舞台にした佐用姫の伝説は、中世にかけて変遷し続け、色々なヴァージョンが生じた。その一つの流れは、狭手彦の乗った船を見送ってから5日後、佐用姫は狭手彦に化けた蛇神に騙されて、山の上の沼に引きずられて死ぬというものである。もう一つの話の流れでは、離別を惜しんで唐船を追い続けた佐用姫は加部島まで行き、そこで7日間泣き続けた後、石になってしまったそうだ。そしてもう一つが、彼女は狭手彦に与えられた鏡を抱いて、海に沈んでしまったという伝説である。

 

No.022_交差する物語_02

 

 どの話しの流れを見ても、狭手彦への執着心を捨てず、ひどい目に合う佐用姫。そして迷路のように複雑に絡み合っている説話の多さに頭を抱えている私。とりあえず入水ヴァージョン系統の伝説に集中して、それはいつ頃から存在しているのかを明らかにすることから始めようと思った。

 

 しかしそれでも解決すべき謎が多かった。例えば季節の問題である。〈松浦〉の物語はなぜか冬に展開している。一般的に知られている佐用姫伝説の内容から見ると、冬にこだわる理由は見当たらない。だが作者は世阿弥だから、必ず理由があるだろう。彼の作品の場合、偶然そうなったということはないのである。

 

 ちなみに佐用姫が山の上から領巾を振り続けた故事を踏まえて、その山は領巾山(れいきんざん)、または領巾峰(ひれふりのみね)と呼ばれていたようだ(『肥前国風土記』による)。しかし現在は鏡山と呼ぶのである。では「鏡山」に改名されたのはいつ頃だろうか?この地名は世阿弥の時代まで遡るのか?世阿弥はそれを知っていたのか?

 

 もう一つの謎は〈松浦〉に出てくる鏡自体である。そもそも狭手彦が佐用姫にあげた鏡は、いったいどのような鏡だったのだろうか?まさか銅鏡ではなかっただろう。古代の人は日常的にどのような鏡を使っていたのか、それも一応調べなければならないと思った。

 

 それから私を一番悩ませたのは、〈松浦〉に登場する鏡の宮だった。能ではそのお宮に佐用姫の魄霊が祭られているという。寺社辞典で調べてみたら、神功天皇が祭られている鏡の宮が、確かに佐賀県の鏡山の麓にあると分かった。しかし佐用姫への言及はなく、どうやらこれは能に出てくる鏡の宮とは違う神社のようである。

 

 資料を調べるだけでは、先行研究で指摘されたこと以上に新しい情報一つも習得できていないと気付いた時点で、現地に行くしかないと思った。古代には松浦と言われていた場所に実際に行って、佐用姫伝説と関係がありそうな所を回り、その地域にどのような言い伝えが残っているのか調べようと決めた。季節は1月のはじめ頃の真冬で、ちょうどいいと思った。冬の松浦の風景にヒントになり得る何か特別なものが発見できるだろうか?佐用姫の物語の舞台となったあの風景が自分の目で見られると思っただけで、すでにわくわくしながら、九州へと旅立った。

ラモーナ ツァラヌ