こんちわーわんわん。りょんさんですー。
年の瀬にいろいろ展開してるねー。末期症状、末期症状と言われてからが長いんだけどね、何ごとも、さ。つまり末期症状って取り沙汰されるようなものって、一時代を画したもの、それなりに大きな存在なんだよね。少なくとも、そんなふうに言いたがる人々が属する社会にとっては、ね。
しかしまた、なんで今さら、この時期に、って感じ。派閥の金の流れなんて、ずーっとそうたったから、それでいいと思ってた、ってことに決まってんじゃん。だからいいってわけじゃないけど、汚い金だとか、国民は物価高に苦しんでるのに、とか、ちょっとポイントずれてるんだよね。
われわれがすべきなのはさ、自分たちの金銭感覚でその金額にたまげることじゃなくて、なんで政治家がそんなつまらんことでつまずくのか、その間抜けぶりとか、弛緩ぶりとか、小物ぶりに呆れることなんじゃないか。少なくとも小泉元首相や安倍元首相は、そういう金の動きにはよく気をつけてたらしい。ほとんど書面上の処理か、有利になってもたかが知れてる、ってレベルのことで足をすくわれないように、って。そもそもさ、そういうふうに立ち回れるかどうかってのは結局のところ、視野の広さだよね。目先のことでいっぱいいっぱいだと、そこまで気にする余裕がない。だけどそれって、まず天下国家を憂うべき政治家の資質としてどうよ?
しかし政治の世界だけじゃなくて、いろんなところで組織の矛盾が噴出してきてるねー。これが時代の流れというもんかもしれない。誰がバラしてるんだろうね。もちろんそれぞれのケースで、利害関係のある誰か、または利害関係のなくなった従業員、そんなところから漏れてるのだろうけど、こう続くと主語の大きな“誰か“が動いている気もする。ソ連だって、ベルリンの壁だって、崩壊するはずのない力関係、構築されたロジックに何かのはずみで穴が空き、そこに次々と偶然みたいな出来事が重なっていったんだった。
ビッグモーターのやらかしには唖然としたけど、あのときは、まぁ、あんなことしてたらバレるよね、としか思わなかった。急成長した新しい会社だし、何かに目がくらんで無茶をしたな、みたいな。でもさ、それって結局は販売とか、つるんでたのも保険会社とかだし、ようするに仲介的な仕事なんだよね。右から左に渡すときに誤魔化せばどうにでもなる、という意識になるのに、そんなに時間はかからないんだろう。
一方でダイハツの不正な検査については、あまり一方的に責められないかもしれない。再検査の後にリコールを、とは当然言われているし、実際に不具合があれば早急にそうしないと社会不安に繋がりかねない。とはいえ、ほんとにそうなるのか、という点については今のところ、ちょっとわからない。30年にも渡るとのことで、膨大な項目のチェックになるから、深刻なものが出てくるかもしれないけれど、ほとんどが検査パスの状態、もしくは護摩化した数値よりむしろよいという可能性もあるらしい。
まあ、そうでなければ30年間も続くわけがないよね。じゃ、なんでそんなことしてたかっていうと、要するに品質については大丈夫という手ごたえはあったわけだけれども、検査という制度を通すのに時間がなかった。だからとりあえず、そこは誤魔化して通しちゃって、内実については自分たちで担保しよう、ということだったんじゃないか。
つまり市場の競争に耐えるスピード感と、制度に合致するための時間的制約がどうしても噛み合わない。その矛盾の中での苦肉の策だったと思うと、もちろん褒められることでは無いけれども、同情の余地はあると思う。同情したいという気持ちもある。ものづくり日本を支えてきたのだから。どっかのやくざなが仲介業者がピンハネして利益を増やそうとしていたのとは訳が違うんだ、と思いたい。
ガソリンで発覚した問題も含め、自動車関係で集中的にいろんなことが噴出してきたよね。日本の基幹産業である自動車にまつわる見直しが進んでいるということだ。末期というより仕切り直し、再生のきっかけになるかもしれない。そうでなければ困る。自動車に象徴される日本のあらゆる基幹的な仕組みが今、見直されようとしている。ま、これもそう思いたいだけなんだけど。
日本の経済的な基幹であった自動車産業について抜本的な変化が起こるとすると、政治的な基幹である自民党について起きていることが、今度こそ本質的な事態であってもおかしくはないと思う。安倍さんがいれば、もう少し保ったかもしれないものが、いなくなってしまったのは残念なことだけれど、もしかするとそれで日本の政治の組み換えが少し早まったとも考えられる。
とはいえ、政権交代の見込みはほぼゼロである今、やはり自民党の変化に注目していくしかない。前回、次は誰だろうって書いたとき、高市さんはやっぱり可能性としては少ないのかなあ、って思ってた。ここへきて可能性は別に高くなってないと思うけど、ただ、なんとなく面白い様相に変化してきたような気がする。
世の中の大きな変化というのは、こーゆーさ、なんとなーくの様相の変化によってもたらされることが多いんじゃないか。岸田内閣の支持率がどれだけ下がったといっても、まだまだ森内閣のときほどではないわけだし、だから必ずしも数字が末期状態を示すのではなくて、もっと何か、全体の雰囲気的なこと、岸田さんの持っている空気感みたいなもの。そういったものが今の状態や行く先を示しているように思う。岸田さんの資質や人柄の良し悪しは別として、ああいう人が総理大臣となった今、という時代に思いを馳せるしかない。
さて、女性宰相というのはどういうふうにして生まれるものなのだろう。高市内閣が成立したら、もちろん日本初の女性首相として話題になることは間違いないけれど、そうなっても実際には高市さんは無派閥であった、政策通であった、保守である、そういったことの重なりで、たまたま次の首相になったということであって、性別はよりいっそう、たまたまのことでしかない。そういうふうな流れの中でしか、女性宰相は(そして他の、それぞれの男性の宰相も)生まれないんじゃないかと思う。もちろん国が追い詰められたから、女でも仕方なく、というのでもないだろう。ただ、彼女が孤立しているということが、今の状態ではむしろ奇跡的にプラスにはたらく可能性がある。これはとにかく、時代の大きな流れが変化していることの表れではないかと思う。いや、ここでもそう思いたいだけなんだけどさ。
ヒラリー・クリントンは女だから大統領になれなかったわけではない、と言えばわかりやすいだろうか。ただ女性としては、結果としてずっと人気の高かったビル・クリントン大統領の配偶者であったわけで、そのことは選挙においては結局、マイナスにはたらいたと思う。大統領の資質はヒラリーの方が高かったかもしれないけど、ビル・クリントンの、いわば男であるがゆえの間抜けさが、アメリカ国民の心情にはアピールした。隙がなく優秀であることが彼女の足を引っ張ったとは言い過ぎになるかもしれないけれど、これは別にヒラリーに限ったことでなくて、アメリカ国民は完璧なものよりも、若いとか抜けてるとか、未完成な魅力を選ぶのはよく知られたことだ。女であることを強さでカバーするのでなく、もっと別の活かし方もあったのかもしれない。ケネディ的なものが愛されるのは、ケネディ大統領が白人だったからでも男だったからでもなく、ワクワクするような若さと生命感に満ち溢れていたからだったということは、オバマ大統領の誕生で証明されたと思う。
現状から言うと、消去法的になんとなく高市さんの目があるように見える、というのに過ぎないのだけど、高市さんは孤立して、つまりちょっと弱く見える、そのことが彼女のチャンスを広げるかもしれない。女でもの珍しいし、ピンチヒッターとしてとりあえず女性宰相というより自民党党首、結果としての宰相みたいにしておいて、いつだって交代させられるさ、と思わせることができる。それこそが今の高市さんの最大の強みなのかもしれない。本当にそうなるかどうかは、なってからしかわからない。女の子に軒を貸したつもりで母屋が、というのはNHK党の内紛劇だけど、そこが政治の面白いところだ。
りょん
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