こんちわーわんわん。りょんさんですー。
ハロウィンかぁ。まだ年の瀬ではないけれど振り返ってみるに、なんか変な世の中になったよねー。実におかしなことが多いなー。何が、って、うまく言えないけど、今までの社会的な当たり前が通用しないっていうか、むしろ今までが何だったの、と思わせてしまうような、さ。
その結果、権威と思われていたものが、そんな程度のものだったの、ってことも多かった。裁判所もマスコミも、もちろん政権もだけどさ。そういうのは今に始まったことじゃないのかもしれないけど、これが露わになるっていうのは、しかも、それが末端にまでわかっちゃうってのは、いいことかもしんないんだけどね。
よくも悪くもSNSの発達によっていろんなことが表沙汰になった、って言われている。それがために権威を気取っていたものが足元から揺さぶられる、っていうのは現象としては不思議でもない。ただ、SNSを手にしたわれわれ一般ピープルの心理状態も変わってきてるよね。それは必ずしも解放的で自律的な、良い面ばっかりじゃない気もするんだけど。
権威的なものへの信仰が失われるのは小気味よいんだけど、一方で、社会的規範、人に備わっている社会性そのものへのリスペクトがなくなってきてる。リスペクトがないって言うより、なにそれ、おいしいの?って感じ。存在そのものを知らないっていうか。そもそも誰がそれを教えるんだ、ってね。
たしかに社会的規範や社会性なんて目に見えないもの、その必要性を実感するのにもきっかけがいるよね。なんか身に染みて堪えなければ、そういった概念が腑に落ちることはないけど、ちょっとでも納得させようとすると、すぐパワハラとか言われるわけ。たとえパワハラとかゴタクを並べられようと、教えるべきことは教えなきゃっていう気概のある上司もいなくなった。それこそ、そうまでして何かしてやらなくちゃいけない理由がわかんなくなってるからね。
要するに、まさにそれよ。自分が損してまで、しなくちゃいけない理由がわからない、という文言に尽きる。実際、権威的な組織の人たちまでもが、今までカッコつけながら、実は自分たちの利益だけを優先してきたってバレバレなわけだから、われわれがそんな義理を果たす理由って、たしかにないよね。
雰囲気としては、一人一人が〝ゲーノー人〟になってるって感じ。芸能人ていうより芸能人くずれって意味でさ。つまり活躍してる芸能人とは無関係で、そのイメージを追っかけてなおかつ、なりそこなってるってことだけど。その〝ゲーノー人〟のイメージっていうのは、様々な社会的な制約から解き放たれているように見える、ってことに過ぎない。ただキレイゴト言ってれば済むように見えるってね。別にこれといって言いたいことのない、オツムが空っぽさんにとって、そんな楽な仕事はないって思えるだろうし。もちろん実際には、そんなレベルで生き残ってる芸能人はいないんだけどさ。
りょんさんはさぁ、仕事で撮影の現場に何回か行ったことがある。そこで芸能人の方と直接に親しく話をしたことは、もちろんあんまりないけど、ただ周りのスタッフとはよくいろんなおしゃべりをした。そうすると、わかってくるのは、芸能人で長く生き残れる人っていうのは、周りのスタッフと同じレベルで話ができて、社会の構造や仕事の仕組みを深く理解してる人だってこと。社会的な善し悪しもわかるから、本当の意味での損得勘定ができる。何がぎりぎり許されるとか、結局は許されないとか正確に判断できるってのは、つまり頭のよさってことだけどね。
その程度の頭のよさがなければ、どうせ芸を磨くなんてこともできないわけよ。なにかの巡り合わせか、他人の恩恵でもって一時的によいときがあったとしても、いずれ消える。だけど、すべての芸能人がそうではない。その辺のところはスタッフの評判とかを聞いていると明確にわかる。いくつになっても、きちんと立場を作って生き残っていく人と、勘違いしたオツムの悪さだけを財産としてイタい社会人として生きていくしかなくなっていく人と、後者が芸能人くずれってわけ。
ま、文字通りの芸能人くずれの心配なんか誰もしてなくってさ、りょんさんが気になるのは、一般の健全な若い子たちが芸能人くずれのイタいメンタルに近づいていってる、そこなんだよ。芸能人崩れのメンタルって、具体的には、目先の利益しか把握できないってこと。その先にあるものがわからない。つまりそれは社会構造が把握できてないってことなんだけど。ところが今、目先の利益をつかまないのは、お馬鹿さんだと思ってる。悪知恵をはたらかせてつかんじゃうボクちゃんワタシちゃんがお利口さん、って、そういう感覚でいる。そのことで多少の摩擦があるかもしれないけど、時間が経てばなし崩し的に許されるかもしれないんだから、目の前にあるものをつかんじゃう。お猿さんって、そうなんだよね。時間感覚がさ、そもそも朝三暮四。
そんなお猿さんは昔からいるし、イソップ物語その他でも頻出の話なんだけど、なんで今更これを芸能人くずれとかって言うかというと、そんな自分を正当化する文言をSNSで発信し続けることができる、って現代特有の現象があるからなんだよね。自分は間違ってない、そんでお利口、って、自分を納得させる装置がある。まぁ、イソップ物語ごときで太刀打ちできなくなってるわけよ笑。それは長い目で見れば、本人が立ち直るきっかけを得られない、ってことに過ぎないんだけど。
そんで、岸田政権の支持率がまた下がったね。「減税までしてやったのに」ってか笑。岸田さんてリーダーとしての資質はもちろん皆無なんだけどさ、りょんさんは別の意味で支持するかな。なんか親戚の頼りないオジさんみたいじゃん。親戚の中にもリーダーシップのある人っていて、だけどそういうレベルにも行けないオジさんてよくいるじゃない。Aの人がaがいいと言えば、そうだねーって言って、そっちに寄っていく。Bの人がbがいいと言えば、そうだねーって言って、そっちに寄っていく。右顧左眄するんだけどさ、全体を読む力だけはまったくないっていう大笑。そういう人が首相だっていうのも象徴的でさ、歴史に残る宰相ってことなのかもしれないね。これはこれで。
裁判所っていうのはだいたい、国寄りの判決を出すって言われてるんだけどさ、ここへきてこれのパロディーみたいにな判決も出てさ、「司法の馬脚」って、小説のタイトルみたいだけど、これはこれで面白い。LGBTとか性別変更の特例法で、判決文っていうのが身近になったっていうか。だって出来の悪い大学生レベルの作文だよ? ここまで身近になんなくていいよー。
こういうの書いちゃうっていうのはさ、頭が悪いんじゃなくて、その内容がそもそも苦しい、無理矢理に作文させられてるってことなんだよ。その辺の悲しみというか、お気の毒というか、裁判官も人間なんだなぁ。って思うよ。だけど、なしてそんなレベルの低い作文をしなきゃいけないかっていうと、要するに国寄りの判決っていう伝統を踏襲してるってわけよ。2019年にまったく別の常識的な判決を出してるのにさ、最近の岸田政権がやってることがあんまりアホらしいから、それに追随しなきゃいけない司法までバカみたいに見えるってわけだよね。いい迷惑だと思うよ。
今更ながら三権分立なんて幻だってことがはっきりしたわけだけど、「違憲判決を出した部分以外は変えてはいけない」とかさ、司法の権利を逸脱するようなことまで平気で言ってて、結局のところ立法府も行政府も自分たちの味方のはず、って思ってるからだよね。だって、そっちに擦り寄ってんだから、何を言っても否定されるわけがないと。
だけど岸田さんて、もうすぐいなくなる宰相でしょ。岸田さんがLGBT法の成立を望んだのは、バイデンだかアメリカ大使だかにいい顔するためで、それでサミットでカッコつけさせてもらったって、もっぱらの噂だよね。その甲斐もなく、なのか、中東情勢では日本だけG7からエンガチョれてるけど、これはグッジョブかもね。君子と親戚のオジさんは危うきに近寄らず、なんだよ。
まあ、こんな風前の灯火みたいな政権に擦り寄る判決を出してもさ、また4年後には反対の判決を出さなきゃいけなくなるんじゃないの。それでもその頃は、もう判事さんたちもいないかもしれないから、目先の利益を追いましょう、ってか。オツムの悪い芸能人くずれのガキどもと変わんないね。
いや、そうじゃないんだな。そんなレベルだってことを臆面もなく示すのが、たぶん今の世の中では一つの業績になるってことなのかもしんないね。そしたらテレビ局の今の体たらくってのも、時代に対する義務を果たしてるってことかも。一時のプライドの高さ、一時の勢いからしたら、テレビ局はもう見る影もないけれど、そもそもこのぐらいが本来の姿なんだろうね。おもしろうてやがて悲しき、っていうか、それも一つの風情だよね。
りょん
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