長岡しおりさんの文芸誌時評 『 No.003 Feel Love Vol.19 』 をアップしましたぁ。「辛酸なめ子の世界恋愛文学全集」 という書評的エッセイを取り上げておられます。長岡さんは 『恋愛がヴィジュアルなベッドシーンに常に置き換えて処理されなくてはならないとすれば、若い子たちが恋愛とはセックスのことだと認識しても無理はない。それが倫理的にどうというつもりはないが、やはり情報としてバグが出てくることにはなる』 と書いておられます。
確かに恋愛とセックスの関係、けっこう難しいですねぇ。現代はヴィジュアル時代ですから、小説が画像や動画データにかなうわけがない。じゃあ小説が文章でしか表現できない恋愛・セックスを描けているかと言えば、そうでもない。むしろヴィジュアルメディアに引っ張られている面がある。長岡さんがおっしゃるように 『源氏物語・・・全巻で最もエロティックなのは、ついに男女の関係を結ぶことのなかった大姫の死を薫がみとる場面』 なのですが、現代小説は文章のエロティシズムを見失いつつある。
純文学作家にお話をお聞きすると、やはりベッドシーンは書きにくいとお答えになる方が多いです。なんやかんやいって、ベッドシーンは読者の心に残ってしまうからです。作家は力を入れていないのに、そのシーンだけ記憶してしまふ読者がけっこういるといふことですね (爆)。解決策は2通りしかないようです。じゃんじゃかベッドシーンを書くか、またはぜんぜん書かないか。複数のベッドシーンが出てくれば衝撃は薄れますし、書かなければ読者に余計なインパクトを与える可能性はなくなるわけです。
よほどアブノーマルでないかぎり、通常の男女のセックスは常同性です。常に同じことを繰り返している。したがって小説作家がセックスによって読者に衝撃を与えたいときは、アブノーマルなセックスを描くか、または常同性をゆさぶる状況を周到に作り上げることになります。いずれにせよ人間の性の組合わせ単位は男女、男男、女女しかないわけで、これらの組合わせもまた一つの常同性と捉えることから、作家それぞれの性描写が始まっていく。まあたいていの場合、作家はすんごいことを書いてしまったと思っていても、実際はそうでもないのは、セックス描写でも他の描写でも同じだと思いますぅ (笑)。
■ 長岡しおり 文芸誌時評 『 No.003 Feel Love Vol.19 』 ■