「辛酸なめ子の世界恋愛文学全集」という書評というか、エッセイが二本、掲載されている。「世界恋愛文学全集」というのは、なかなか魅力的である。『ボヴァリー夫人』とか『源氏物語』とか、そういう観点で集められれば、世界の古典といえども、女性たちは存外に手に取って読破してしまうかもしれない。
そうなると「恋愛文学とは何ぞや」という問いが頭をもたげるのは必然だが。そしてこの辛酸なめ子の記事も、私たちがすぐにイメージするような、いわゆる恋愛文学を取り上げてはいないようだ。
雑誌のことを「本」と呼ぶのは、最近の若い人か雑誌編集者だ。後者が自分たちの作っている媒体を「ホン」と言いたがるのは一種の業界用語で、芝居の脚本を「ホン」と呼ぶのと同等だろう。前者は本当にそれを「本」だと思っているらしい。「今、何してんの」「本、読んでた」「何の本?」「Hanako」てな具合。ネットじゃなくて紙見てた、というぐらいのつもりだろう。
セックスやポルノを「恋愛」と呼ぶのは、最近の若い人か風俗業者だ。後者が自分たちの営業に、好いたはれたを絡ませるのはお上に対する目くらましであり、うぶな客をより深入りさせるためだ。前者は本当にそれを「恋愛」だと思っているらしい。っていうか、他に指標となるものがないのだ。お手本となるべき「恋愛もの」を出版する連中が、それを「イロモノ」とすり替えて見せるのだから。
こういう次第となったそもそもは、メディアのヴィジュアル化が原因かもしれない。もちろんそれ自体、悪いことではない、というより時代の必然だ。高度情報化社会において、人はこれまでとは比べものにならない量の情報を処理するようになった。ヴィジュアル要素は、情報の大量かつ瞬時の処理に欠かせない。しかしそこで情報の歪みも起こっていることも確かだ。
恋愛がヴィジュアルなベッドシーンに常に置き換えて処理されなくてはならないとすれば、若い子たちが恋愛とはセックスのことだと認識しても無理はない。それが倫理的にどうというつもりはないが、やはり情報としてバグが出てくることにはなる。源氏物語の映画化はたいていポルノまがいになるが、それを観ているかぎり、全巻で最もエロティックなのは、ついに男女の関係を結ぶことのなかった大姫の死を薫がみとる場面だ、といったことは理解できない。それはもったいないことだ。
目に見えないことを存在しないことと同じに処理しようとするのは、情報化が進んだのではなく、情弱(= 情報弱者)の為せる業なのだ。現実問題としても、セックスはむしろ何ごとかの目くらましになることが多い。それを恋愛状態と同一視するというのは、まあ、単なる経験不足としか言いようがない。
恋愛小説をイロモノと同一視するのは、シビアな現実主義のようでいて、ごく大雑把なことだ。今の世の中こそ、恋とはセックスではなく、微に入り細に入った「情報」そのものでなくてはならない。
長岡しおり
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