小説新潮様の表紙には「物語を、いつもそばに」と印刷されています。
そーよねー、小説って物語なのよねー、と思いますが、じゃ、小説の物語ってどんなものかしら、と考えてしまうところもござーますわね。
といいますのも、現代では物語にはいろんなメディアがございますでしょ。
一番力強くてポピュラリティがあって、読者の支持を得ている物語は言うまでもなくマンガよね。今やベストセラーの書籍はマンガで独占されておりますわ。日本だけじゃないわね。世界中でマンガが翻訳されて読まれています。今や日本を代表するカルチャーはマンガ、アニメでござーます。
物語中心に考えれば、売れる小説本というのはドラマ化、マンガ・アニメ化できる小説ってことになりますわ。ラノベ系でマンガ・アニメ化されてヒットした作品もござーます。いわゆる大衆文学は読者がつかないと、ということは、絶対に売れないといけないわけですから、その路線を狙うのは当然のことですわね。
でもねー、その路線を取ると、やっぱりマンガに負けちゃうと思いますのよ。本を売りたいなら最初からマンガ家の先生と小説家、というより物語作家様ですわね、がタッグを組んだ方がいいかもしれませんわ。マンガの物語性には小説とは違うノウハウがありますもの。
マンガがなぜ売れるのか、その理由は簡単ですわ。絵があるからでござーます。
じゃ、絵が上手ければマンガが売れるのかと言いますと、そーでもござーませんわね。
当然、絵と文字、いわゆるネーム、物語の組み合わせが魅力的なマンガ作品になるわけです。
この組み合わせ方法はほとんど無限にあります。ただそこはかとないルールもあると思いますのよ。
マンガは小説が言葉ですべて伝えるところを絵で表現しています。当然と言えば当然のことなんですが、それが小説的な言葉の重さを軽くしているわけですわ。じゃ、かるーい言葉だから魅力的マンガになるかと言えばそーではありませんわね。絵とネーム(言葉)のバランスが重要です。
長台詞のネームもありますけど、ホントに感動するマンガのネームって文字数はそれほど多くありません。比較的短いネーム(言葉)が絵の力で説得力をともなう感動を呼び起こしています。その仕組みはとっても有機的ね。少なくとも優れたマンガはそうですわ。
柄にもないことを言いますと、マンガは絵を含めて言語的なのよ。まず物語がござーます。これは言語化できる。小説と同じでマンガも言葉によって物語は進行していきます。でもマンガでは物語の中から決定的な言葉を抽出してそのほかの部分を絵に委ねます。マンガのネーム(言葉)にはその背景があって、それを絵が担っているわけですわ。
マンガの絵は短いネーム(言葉)を超えて、物語全体の流れを視覚言語として表象しています。むつかしいことを言っちゃいましたけど、絵がネーム(言葉)を多様な解釈として表象するわけですわ。読者はネーム(言葉)を読んで絵を見て、そこに無限の解釈可能性があることに気づくわけです。つまり言葉だけで表象されてきた物語が絵によって細分化されて、言葉だけで表現されてきた小説よりも深みと膨らみのある表現になるわけ。
この仕組みは現代日本のマンガではとっても高度なレベルに達しています。簡単に言っちゃいますと短いネーム(言語)と絵の組み合わせによって、非ー言語的な物語全体の膨らみが無限増殖するわけ。物語の筋(ストーリー)はネーム(言語)によって表現されるわけですけど、物語の全体性は絵によって表象されると言ってもいいわね。この絵は非ー言語的ですから読者にとって言語的解釈(受容)の幅が多様になる。読解の幅が広くなるわけですわ。マンガのストーリーやキャラに読者それぞれの思い入れが生まれるのはそのためね。
じゃ、物語の面白さから言って小説はマンガにかなわないってことになるわね。それについてはそのとーりだと思います。少なくてもドラマやアニメといった視覚表現と相性がいいのはマンガね。ほんじゃほんじゃ、小説は今後、マンガより売れることがないのかしら。これもそのとーりだと思います。アベレージの売上で言えば、小説は今後もマンガにかなわないと思います。戦後の大衆文学全盛期と比べればというお話ですが、小説はこれからずっと斜陽産業であり続けるのは間違いないですわ。
じゃ、最初の設問に戻って小説の物語の面白さってなんなのかしら。ストーリー展開の面白さだけから言えば絶対にマンガにかなわないわね。いわゆる筋だけ追ってああ面白かったっていう小説は、マンガやアニメに二次加工されて売れるってことはあるかもしれませんけど、それ自体はマンガほど物語の膨らみを持てませんから。逆に言うと、小説のアイデンティティを考えますと、ストーリー(筋)の面白さだけではとてももたないってことですわ。
ここが大衆小説のむつかしいところよね。ストーリーは面白くなくちゃいけません。でも面白いだけじゃダメかしら、ダメにきまってるだろ、ってことになります。マンガがネーム(言葉)と絵の組み合わせによって生じさせている物語全体の多様性、解釈多様性に匹敵するようなプラスαが必要ね。それを言葉だけで表現しなくちゃなりませんから、小説はいわゆる純文学に近づくのかしら。そーとも言えないわね。日本の純文学の定義は曖昧ですから。
アテクシの勝手な考えでは、もう純文学と大衆文学の垣根って、あってないようなものよ。少なくとも読んでいて苦痛を感じるような硬直化した純文学はもうダメね。すんごい大局的に見れば文字だけで書かれる小説はある意味すべて純文学なのよ。言葉の表現の中だけで物語プラスα要因が求められているわけですから。言語表現の意味・意義をちゃんと捉えないと純文学も大衆小説もあったもんじゃないですわ。もっと言えば、ふるーい文学幻想に凝り固まった今の純文学よりも、売れてプラスα要因のある小説を生み出そうとする大衆文学の方が未来は明るいと思いますわ。
何かを設計するということは、バカみたいなことをバカみたいなことだと思わせないように精一杯の知恵を使うことだろう。どこかの誰かが知恵を絞って設計したものがいつも母を取り込んでいたように何千万、何億と使ってちっぽけな機械を宇宙に飛ばすことだって、バカみたいな行いには違いない。母の死に目にも立ち会えぬほど心身を犠牲にして、そのバカみたいなものは設計される。
久保勇貴「ゆらめいて燃える」
今号には「生まれたての作家たち2024」特集が組まれていて、新人作家様六人の短編小説が掲載されています。ほとんどの作家様がストーリー(筋)の面白さでお作品を引っ張っておられましたが、久保勇貴さんの「ゆらめいて燃える」は小説ならではの重層的お作品でした。
主人公は大学の宇宙工学の先生。ただ宇宙工学で思い浮かべるような明るい未来幻想は一切ありません。少なくともこのお作品ではそういった幻想が排除されています。人類の未来を切り拓くような仕事をしていますがそれが「何かを設計するということは、バカみたいなことをバカみたいなことだと思わせないように精一杯の知恵を使うことだろう」という形でピタリと現実に重ね合わされています。主人公が辿ってきた人生の延長線上に宇宙工学はある。人間の生も宇宙工学もすでに設計された枠組みの延長にあるということですね。それが明るいのか暗いのかは別として。
主人公は「決して裕福でない家庭で、立派に育ててもらった」「身を削って育ててくれたことも分かる。傍から見れば十分立派な親だったことも分かる」。ただ両親は主人公が中学生の時に別居しました。離婚はせず主人公が母が住む実家と父が暮らすアパートの間を往き来していた。主人公がいたから両親は離婚しなかった。
父との不和からでしょうが母親は競馬に熱中していました。幼い主人公を連れて競馬場に通っていた。しかし主人公が小学5年生になると「母の興味が競馬から受験に移った」「馬に操られる立場から、馬を操る立場になったわけだ」とあります。それを恨みに思っているわけではありません。今の自分があるのは母のお陰なのですから。しかし母は亡くなってしまう。競馬からお受験と教育に興味は移りましたが、ずっと続けていた喫煙をやめられなかったのです。それも世の中にたくさん存在している「すでに設計された枠組み」の一つです。主人公は仕事の忙しさにかこつけて母親の臨終に立ち会いませんでした。
結局母は軽い脳震盪と打撲で済んだけれど、その怪我とは関係なく、1年後に肺がんで死んだ。あの日たまたま実家に帰っていなかったら、もう1年早く肺がんが進行してくれていたら、あんなに弱った母の姿を見ることもなかったかもしれない。この10年間自分がこんなに苦しむこともなかったかもしれない。家族だって設計されたものだ。外から見ればどんなにバカみたいな仕組みでも、それに囲まれて過ごす生活はいつも自然で、いつの間にかその仕組みにバカみたいに取り込まれてしまう。それなら死ぬまでバカでいられたら楽だったのに、あんな歳になって急に気づいてしまったのだ。そうしてようやくその支配に抵抗しようとし始めた時に、当の支配者はタバコの吸い過ぎで勝手に死んだ。
同
物語は主人公が新たに打ち上げるロケットに母の遺骨を潜ませるという展開で進みます。主人公は過去に一度衛星打ち上げの時にロケットに母親の遺骨を忍ばせました。が、宇宙に届かないまま墜落してしまった。ロケット打ち上げの機会は少ない。次の打ち上げが最後のチャンスです。しかも主人公は現場担当ではなく研究者を指導する立場になっています。ロケット設計に余分なパーツを加えることは許されません。そこで極小のチップに母親の遺骨を入れて、研究室に忍び込んでロケットの部品にそれを貼り付けたのです。
無事ロケットが宇宙に達したかどうかは実際にお作品をお読みになってお確かめください。ただこのお作品では人生も宇宙工学といった最先端技術も、世の中にすでにある「仕組み」に沿って否応なく動いていることが示されます。誰もそこから逃れることはできません。しかし主人公の精神はそれを破り突き抜けようとする。縦に、宇宙にまで届くロケットのように。そこにあるのは無の空間ですが突き抜けようとすることが重要なのです。良いお作品でございましたわ。
佐藤知恵子
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