佐原鞠塢作火入
ほかに趣味らしい趣味もないので毎週のように骨董屋に遊びに行って、数ヶ月に一点くらい骨董を買う。買えば最低限のことは調べるが毎回書きたくなるような骨董ではない。『言葉と骨董』が不定期連載になる理由ですな。また作者や制作時代、場所、伝来経緯などについてわからないことがあっても短期間では調べきれないことが多い。今回は佐原鞠塢作の火入だがじゅうぶん調べられなかった。ですから鞠塢さんについての途中経過的備忘録です。
東京の東武スカイツリーライン東向島駅から徒歩約八分の場所に向島百花園という庭園がある。約三三〇〇坪もある広大な公園というか植物園である。この百花園を造ったのが佐原鞠塢である。開園は江戸後期の文化二年(一八〇五年)。文化元年(〇四年)説もある。
百花園は入園料は取らず誰でも入れるお庭だった。長く佐原家の所有だったが大正四年(一九一五年)に日本石油創業者の小倉常吉の手に渡り、常吉の死後、昭和十三年(三八年)に未亡人によって東京市に寄付された。二十年(四五年)三月十日の東京大空襲によって壊滅したが関係者の尽力によって元の姿に復旧された。五代将軍綱吉老中の柳沢吉保開設の駒込六義園などと並んで江戸時代の遺風を伝える数少ない庭園である。ただ六義園が巨石などを配した壮大な庭園であるのに対し、百花園は元の地形を活かした平庭だ。武家庭園と町人庭園の違いですな。
鞠塢については以前触れたことがある。酒井抱一と尾形乾山がらみである。三浦乾也の回でも触れたかな。明治の乾也あたりまで続いた隅田川焼(すみだ焼)は鞠塢から始まる。そのきっかけとなったのが抱一による尾形光琳調査である。抱一は調査のために鞠塢を京都に派遣したのだった。
向島百花園
琳派が狩野派のような代々世襲の家芸でないことはよく知られている。光琳に私淑してその画法を体得した者は誰でも琳派を名乗ることができた。その代表が酒井抱一である。
抱一は姫路藩第十六代藩主酒井雅楽頭忠以を兄に持つ貴人である。藩主のように参勤交代する必要がないので定府住み(江戸住み)だった。それが当時隆盛を極めつつあった江戸文化に深く傾倒させたようで、絵はもちろん俳諧や狂歌を書いた。いわゆる日本画だけでなく浮世絵も手がけている。『大吉原展』の美術展時評で書いたが抱一は出家後に吉原の大店・大文字屋の花魁・香川(小鸞)を請け出して後半生をともにしている。江戸後期最大の出版仕掛け人・蔦屋重三郎の吉原連とも深く交流していた。
抱一は光琳画に魅せられてその画風を継いだがそれだけでは飽き足らず私費で光琳研究を始めた。経緯は明らかではないが文化四年(一八〇七年)に光琳の庶子・達二郎(方淑)の養子先である京都・小西家第八代当主・彦右衛門方守に手紙を出して光琳が残した絵や家系について問い合わせた。それが端緒となって現代から見てもかなり精緻な光琳研究が本格化した。
(1)寛政十年―文久三年(一七九八―一八六三)『住吉家古画留帳』(住吉家)
(2)文化十年 (一八一三)刊『緒方流略印譜』一枚摺り(酒井抱一)
(3)同十二年(一八一五)刊『光琳百図』(酒井抱一)、『尾形流略印譜』(酒井抱一)
(4)文政三年 (一八二〇)刊『すみだ川花やしき』(佐原鞠塢)
(5)同 六年 (一八二三)刊『乾山遺墨』(酒井抱一)
(6)同 九年 (一八二六)刊『光琳百図』続編(酒井抱一)
リチャード・ウィルソン/小笠原佐江子共著『尾形乾山 第三巻 研究篇』によると江戸時代に抱一周辺で刊行された光琳・乾山研究書は以上の六点である。
(1)『住吉家古画留帳』は抱一の光琳研究に先立つもので、古画鑑定の住吉家がまとめた古画鑑定用控え帳である。四十数点の乾山絵画が掲載されている。江戸時代を通じて光琳人気は高く、弟・乾山の本業は陶工だがその絵の方が注目されていたのだった。
(2)『緒方流略印譜』は抱一の光琳研究の手始めだ。ペラ紙一枚に光琳が絵に押した印譜が解説付きで印刷されている。
(3)『光琳百図』『尾形流略印譜』は抱一による最初のまとまった光琳研究本。抱一は江戸で文化十二年(一八一五年)六月二日に光琳百回忌を営み、光琳の作品展を開催するとともにその目録(図録)として『光琳百図』を刊行した。また(2)『緒方流略印譜』を増補した『尾形流略印譜』を一冊本として刊行した。この二冊の刊行によって抱一の光琳研究はさらに熱を帯びた。それに大きく貢献したのが今回の主役、佐原鞠塢である。
光琳の墓は京都妙顕寺塔頭の興善院にあったが天明八年(一七八八年)の大火で興善院が消失し荒れ果てたままだった。文化二年(一八〇五年)になって光琳・乾山の父宗謙の母兄宗甫夫妻の元に寄墓が行われた。光琳だけの墓はなくなっていたわけだが抱一は鞠塢を京都に派遣して光琳墓の修復を行わせた。鞠塢は妻を伴って文政二年(一九年)に京都に赴き、小西家の協力を得て同三年(二〇年)三月二日に京都本行院に光琳の新しい墓を完成させた。
光琳墓修復のお礼の意味もあったのだろう、鞠塢は小西家当主・方守から光琳下絵三八〇枚を預り抱一に届けた。それが鞠塢の小西家での光琳関係文書の調査結果と合わせて(6)『光琳百図』続編となって結実した。また鞠塢は方守から『光悦より空中より乾山伝来の陶器製法』一冊を譲られた。書家で陶芸家だった本阿弥光悦とその孫空中が光琳・乾山の琳派の祖であるのは言うまでもない。鞠塢が持ち帰った光琳下絵の多くと『陶器製法』は戦災で失われたので印刷物とはいえ今では貴重な資料である。
秘伝の『陶器製法』を得たのがきっかけになったのか、それ以前から興味があったのかはわからないが、鞠塢は京都滞在中に粟田口の陶工・尾形周平を訪ねて懇意になった。専門家に『陶器製法』の内容を問いただす必要もあったはずだ。周平の父は名工・高橋道八、次兄も名工として知られる仁阿弥道八である。周平が尾形姓を名乗ったのは乾山に私淑していたからだと言われる。
鞠塢は文政三年(一八二〇年)三月に江戸に戻ったが、尾形周平と青磁亀二郎、清水六兵衛ほか三名の陶工を連れてきた。同年五月に所有していた向島梅屋敷(百花園)に「隅田川焼(すみだ焼)」の窯を完成させた。小規模な楽焼窯である。開窯記念には都鳥の香合が配られた。香合には(4)『すみだ川花やしき』の小冊子(パンフレット)が添えられていてこれが乾山陶器に関する最初の本格的紹介になった。乾山は生涯独身で晩年になって二代・野々村仁清の子・伊八(猪八)を養子にして二代乾山の名を譲ると、自らは江戸に出て没したことなどが書かれている。
鞠塢の調査によって乾山の陶工としての生涯にも光が当たったわけだが、それとは別に文政六年(一八二三年)に抱一は、古筆鑑定家の第十代・古筆了伴から上野坂本の善養寺に乾山墓があることを知らされた。抱一は乾山墓を訪ね乾山記念碑を建立した。また同年に(5)『乾山遺墨』を刊行した。乾山の書画三十四点、陶器五点が掲載されている。抱一の興味はやはり乾山の絵に集中していたようだ。
抱一はまた京都で猪八によって乾山焼が継承されたのと同様に、江戸でも乾山流が続いていたことを知った。江戸乾山は二代、三代と名跡が継承されたが三代・宮崎富之助が死去した後は後継がいなかった。抱一は富之助未亡人を探し当て、宮崎家に伝わる乾山自筆の名跡譲状など(現存しない)を譲り受けると文政六年(一八二三年)に四代乾山を称した。しかしそれで気が済んだのか、翌七年(四年)に(新)吉原の名主で書家、茶人、俳諧師で陶芸も手がけた文人の西村藐庵に五代の名跡をあっさり譲った。藐庵は吉原連の友人だったのだろう。この藐庵から三浦乾也が六代乾山の名跡を受け継いだのだった。
佐原鞠塢作火入(その一)
高九・三×口径十二・三(擂座含む)センチ 江戸時代後期
同(その二)
同(その三)
同 見込
さて、ようやく物としての『佐原鞠塢作火入』の考証である。この火入には胴に文字が書かれている。一行ずつ読むと、
歌ま/ひと都/母ては/茶の/ゆは/なる/ものを/よ路つの/道具/このむ/はかなさ/利休居士/の歌/梅屋/きく/宇/造
になる。現代文では「窯一つ持てば茶の湯は成るものを萬の道具好む儚さ 利休居士の歌 梅屋 鞠塢造」である。「利休居士の歌」の出典は『利休百首』だが原文は「釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な」である。
その名は比較的よく知られているが隅田川焼はとても厄介な焼物だ。江戸後期には各地で殖産興業が盛んになり、良質の陶土があまり採れない江戸でも多くの焼物が作られた。いわゆるお国焼である。鞠塢が調査し抱一から西村藐庵、三浦乾也に受け継がれた乾山焼も隅田川焼に含まれることがある。乾也は若い頃に井田吉六から陶芸を習ったが当時は吉六焼も人気だった。また似た焼物に今戸焼がある。
墨田区向島に団子の名店・言問団子がある。このお店で団子を乗せて出す皿は元々は現在の台東区今戸で焼かれていた皿で都鳥が描かれている。言うまでもなく在原業平東下りの歌「名にしおはゞいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありや無しやと」を踏まえている。
業平卿は元皇子だが都を追われ東に下った。隅田川で舟に乗ろうとすると身体が白く嘴と足が赤い鳥が見えた。「何の鳥か」と問うと「都鳥」という答えだった。そこで京の都に残した恋人を思って詠んだのが「名にしおはゞ」の歌である。業平が東に下ったという確証はないが、業平橋や言問橋の名が遺っているように向島を中心とした墨東(川向こう)は古来雅な歌枕の地だった。明治に入ると永井荷風『墨東奇譚』玉ノ井で有名な悪場所になるわけだが。
隅田川焼は乾山流焼物や今戸焼とごっちゃにされやすいが、その理由の一つに江戸時代後期の江戸お国焼には無銘の物が多いことがある。土が似ているのでどこで焼かれたのかよくわからない。隅田川焼にしても制作年がわかる基準作は残っていないようでその歴史を正確に辿ることはできない。今戸焼に似た都鳥の作もある。が、狭義の墨田川焼は高台に「スミタ川」か「百花園」の印があるものになる。
佐原鞠塢作火入 高台 印
【参考図版】隅田川焼作品と高台印
リチャード・ウィルソン/小笠原佐江子共著『尾形乾山 第二巻 資料篇』
『鞠塢作火入』の高台には「スミタ川」の印が押されている。これにより火入が江戸時代に焼かれた物であることがわかる。百花園は当初は秋芳園、新梅屋敷などと呼ばれていて百花園の名が広まり始めるのは開園後二十年ほど経ってからだからである。無印の焼物もあったかもしれないが幕末・明治の作品には「百花園」の印が押されている。「スミタ川」印の作品が少ないことからもこちらの方が古作だと考えられる。
次の問題はこの作品が初代・鞠塢作なのか二代・鞠塢作なのかということである。江戸時代では普通だが町家の当主は代々同じ名前を継いだ。佐原家は現代まで続いているが二代鞠塢の時代で明治維新になった。初代でも二代でも文字が書かれた隅田川焼は珍しいので江戸時代を代表する隅田川焼の一つと言っていいが、どちらか特定したくなるのが人情である。
梅邸鞠塢墓 浅草永住町称念寺塔頭歓名寺にあり。天保二年八月廿九日死。享年七十歲。菊塢又鞠塢と云。俗称を平八といふ。奥州仙台の人なり。天明年間江戸に来り、中村座芝居茶屋和泉屋勘十郎に召仕はれ、称を平蔵と改む。(中略)斯て十年許の間に蓄財し、住吉町に骨董店を開き、北野屋平兵衛と称す。世人故に北平と呼べり。元来、世才ありて文事にも疎からず。当時の加藤千蔭、村田春海、亀田鵬斎、大田南畝、大窪詩佛、抱一上人など諸名家の愛顧を受け、特に川上不白、千柳菊旦の紹介にて諸侯旗本の邸にも出入し、家益富めり。喜多村節信(信節)が筆記に「北平はもと茶がらく商にせし者なり。始め大門通横店と称する処に住み、夫より住吉町の裏にも居たり。好事者にて、書畫を好み、文字なけれども諸名家に立入り、遂に梅屋敷を思付き、諸家に募りて梅樹の料を求め、詩を乞ひ集めて盛音集(鞠塢が出版した漢詩アンソロジー集、文化元年[一八〇四年]刊)を板になして人々に呈す。名家に嘲弄されたる詩文などを得意として、梅やしき是に於て成就す。其後ここにて道具市を立て、素人ども会合すれば、果は不正の聞ありと咎められ、過料追放様々なり」と見ゆ。されどもこの道具市の事は喜多村の誤記にて、梅やしき開かるゝ以前の事なり。この骨董会は、諸事に類するよしの嫌疑にて鞠塢も一度縲絏の中に在りしが、其罪にあらずと放免されたり。然れども自ら住み馴れし地にも住みかねて、其身は本所中之郷の片辺に潜み、菊屋宇兵衛と変名す。さるを以て又菊宇と呼びしが、剃髪の後、鵬斎より、帰空と称せば入道隠居にふさはしからんと云ひしを、帰空は文字いまはしとて、菊塢の字に換えしといへり。さてかく閑居しては世渡る業もなければ、最初は耕圃の業を興さんと志し、幸いに葛西領寺島村に武家抱屋敷の沽却地三千坪を購ひ求め、自ら鋤を負ひ、苟且に籬を結ひ、花圃となせり。
坂田皇蔭『野辺の白露』
鞠塢の生涯や事蹟は江戸の町人としては比較的よくわかっている。故実家の坂田皇蔭が『野辺の白露』で鞠塢について詳しく書き残した。鞠塢は宝暦十二年(一七六二年)生まれ天保二年(一八三一年)没、享年七十歲。元は仙台の農家の息子だったようだ。二十代で江戸に出て中村座の芝居茶屋、和泉屋勘十郎の下で働いた。茶屋で貴顕やお大尽の相手をする幇間のような仕事をしていたようだ。
当時の芝居小屋は悪所と呼ばれ吉原などの遊郭と深くつながっていた。いわば華やかで浮ついた芸能界・風俗業界に片足を突っ込んでいたわけだ。しかし堅実な人だったようで十年ほどで金を貯め骨董店を開いた。元々文人気質で書画骨董が好きだったのだろう。国学者で歌人の加藤千蔭と村田春海、儒者で書家の亀田鵬斎、御家人で狂歌師の大田南畝、漢詩人・大窪詩佛、絵師・酒井抱一、江戸千家創始者の川上不白らの愛顧を受けた。いずれも江戸後期を代表する綺羅星のような文人たちである。
皇蔭は国学者で考証家の喜多村信節の、鞠塢は梅屋敷を開設した後にそこで道具市(骨董オークションのようなもの)を開催したが不正があるとして過料(罰金)を課され追放された云々の記述を引用して、これは信節の誤りで道具市が開催されたのは梅屋敷開設以前のことだと訂正している。また不正の嫌疑をかけられたが放免されたと書いている。ただ鞠塢が一時捕縛(拘束)されたのは事実のようだ。
鞠塢はこの事件を期に骨董商を廃業し出家(剃髪)してしまった。骨董商を続けるにははばかりがあったのだろう。大窪詩佛が帰空と名付けたがあまりよい字でないので鞠塢(菊塢)と号するようになった。出家すると生活の糧がないので東向島(葛西領寺島村)に幕臣多賀氏の私有地だった土地三千坪を買い求め梅の木や草木を植えて庭園にしたとまとめている。皇蔭の記事は正確なようだ。鞠塢はかなり特異というか一筋縄ではゆかぬ御仁だったことがわかる。
芝居茶屋で何でも屋の男衆の仕事をしながら約十年で骨董店を開けるまでに金を貯めたのも凄いが、鞠塢が本格的に裕福になったのは骨董屋時代である。人好きがして誰からも愛され、かつ骨董の目利きだったはずだ。芝居小屋や吉原が繁盛していたのは言うまでもないが当時は考証学が盛んだった。古物への興味が急速に高まっていた時期で鞠塢はその波に乗ったのだろう。川向こうの鄙とはいえ三千坪もの広大な土地を買い求め庭を造るほどの財力があった。しかし鞠塢は浮世離れした文人(風流人)ではない。
鞠塢は十冊ほどの著作を残している。そのほかにも未刊の日記などの文書類もあるようだ。鞠塢はその著書『梅屋花品』に庭園開設の理由を「孤山の処士(林)和靖は梅三百六十株を植、標実を售て生活す。梅屋子も亦其跡を逐て隅田川の辺に荒田数百畝を買て、梅三百六十株を種、一株を以て一日の用とす。花の時に花を賞し熟す時は実を売て世を渡り、其清貧を楽み、人間はんくはの事を羨ず。惟自得する所に逍遙せむのみ」と書いている。
中国北宋代の詩人・林和靖は西湖のほとりに隠棲して梅三百六十本を植え、花を愛し梅の実を売って一年の生活の糧にしたと伝わる。鞠塢は和靖に倣って梅の木を植え、花の時期には花を愛で、実がなると梅干しにして生活の資にするのだと書いている。
鞠塢が隠棲の心を持って向島に庭園を開いたのは確かだろう。が、それは利殖のためでもあった。実際百花園は梅園として始まった。当初は百本ほどだったが全盛期には三百本を越えたようだ。梅干しは「寿星梅」と名付けられ名物となった。
当時の江戸では亀戸清香庵の臥流梅が有名で梅屋敷と呼ばれていた。そのため鞠塢の庭はまずは新梅屋敷と呼ばれた。庭の開設は文化元年(一八〇四年)か二年(〇五年)だが本格的に珍しい草花を植え育てるようになったのは梅の木が育って実が採れるようになった文政年間の約十五年後のようだ。その頃から新梅屋敷に加えて百花園という名でも呼ばれるようになったらしい。また鞠塢は商売上手だった。
電車や車がない江戸時代に人々は基本的に徒歩で移動した。遊びに行くといっても限界があるわけで川向こうの墨東の地、向島は日帰りで遊楽できる格好の場所だった。地続きなのに〝島〟と命名されていることが当時のこの地の遠さを示唆している。また加えて江戸後期には本草学が盛んになり庶民の間でも朝顔などを丹精することが流行った。のどかで珍しい草木が植えてある向島の鞠塢の庭は江戸の人々の格好の遊興地になった。
鞠塢の庭は出入り自由で梅干し以外は収入がなかったわけだが、大田南畝が竹筒に「花を見て茶代をおかぬ不風流 これも世わたり高い水茶屋」と書き付けそれを四阿の柱に掛けておくアイデアを出した。鞠塢が頼んだのかもしれない。これにより遊覧客が茶代として竹筒に小銭を入れるようになった。相当額になったようだ。茶店も経営し始めた。植物の種類が増えるとそれらの苗の販売を行い、萩の枝を切って筆を作り販売もしている。庭園経営にはお金がかかるがちゃっかりその基盤を整えていた。今では考えられないほど向島に遊覧客が押し寄せていたということでもある。
百花園の扁額は南畝の筆である。現在もその写しが入り口の門の上に掲げられている。門の両脇の柱には詩佛が書いた「春夏秋冬花不断。東西南北客争来」の聯(板飾り)を掛け、千蔭書の「御茶きこしめせ梅干しもさむらふぞ」の掛行灯を掲げていた。園内には鵬斎や詩佛撰の石碑もある。戦災で焼失したが園内にあった茶室は抱一の設計だったのだという。南畝らの武士文人たちは蔦屋重三郎や鞠塢らの町人を介して吉原や百花園で遊んでいた。盛んに遊びながら詩文を書いた。鞠塢には彼らをもてなすじゅうぶんな財力があったわけだが文人たちは鞠塢に関してかなりあけすけな言葉を残している。重三郎より気の置けない遊び友だちだったようだ。
で、『鞠塢作火入』の作者が初代か二代かの課題に戻りましょう。
梅園として始まったので鞠塢は当初「梅屋主人」「梅の隠居」と称していた。開園から二十五年ほど後の文政十一年(一八二八年)刊行の『墨水遊覧誌』の奥付は「春秋花庵菊塢撰・花屋敷版」である。文政末には花屋敷の名称もあったことがわかる。鞠塢の著作すべてを精査したわけではないので確かなことは言えないが、彼が自分の庭を百花園と呼び百花園主と称した例は少ないようだ。ただし式亭三馬の『浮世風呂』第四篇(文化八年[一八一一年])に「四季ともに景物があるから、百花園とでも呼でもにくゝねへ」とあり、十方庵釈敬順の『遊歴雑記』三巻上巻(文政十二年[一八二九年])に「名を百花菴菊塢と号し、梅の隠居といふ」という記述がある。すでに文化年間に百花園(主)の名はあったわけだが複数の名称が混在していた。新梅屋敷に代わって百花園の名が定着したのは初代から二代への代替わりの時期だったのではあるまいか。
文政年間になると新梅屋敷は有名になり多くの貴人が訪れるようになった。第十一代将軍徳川家斉、第十二代将軍家慶も梅見に訪れている。徳川将軍のお成りは大変な名誉だった。家斉お成りは文政十二年(一八二九年)で初代鞠塢存命中である。家慶お成りは弘化二年(一八四五年)で二代鞠塢時代だった。この時は御成座敷の前に東竈を築いて隅田川焼を上覧した。二代鞠塢は将軍に献上する楽焼のために桜花内に「百花園」の文字がある印を作ったと言われる。代替わりすれば多かれ少なかれ新基軸を打ち出したくなるものである。二代鞠塢が積極的に百花園の名を広めたのではなかろうか。
物から考察すると『鞠塢作火入』は印と文字がなければ軟陶の京焼に見える。「鞠塢造」とあるが六弁に成形して擂座(器体上方にある半円形の装飾)を付けた陶体は素人の手になるものとは思えない。初代が連れ帰った京焼陶工の作ではあるまいか。また初代の辞世は、
すみだ川梅のもとにて我死は はるさく花のこやしともなれ
である。初代は最後まで「梅」にこだわった。二代なら「百花園」を称したのではないか。二代が「窯一つ持てば」云々の初代作を写したとも考えにくい。「梅屋 鞠塢造」は初代ではなかろうか。ただしこれは佐原家に伝来する初代鞠塢墨跡などを参照しないと確かなことは言えない。
江戸初期の元禄文化は西の井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、尾形光琳らの圧倒的影響を受けた。この文化的西高東低は江戸後期まで続いた。西のぶ厚い文化伝統は与謝蕪村、菅茶山、頼山陽、円山応挙、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪らを輩出し続けた。しかし文化・文政期から天保時代にかけて西とは明らかに質の違う新たな江戸文化が花開いた。実に華やかだが深い諦念を底に湛えた浮世の享楽を描き、時に強烈な皮肉や風刺を交えた文化である。具体的には蔦屋が仕掛けた歌麿、写楽らの浮世絵であり南畝らの狂歌、詩佛らの詩文、滝沢馬琴らの戯作である。九鬼周造の『「いき」の構造』だ。
一方で抱一が琳派を称し西の文化の再受容が起こった。ただ抱一からその弟子の鈴木其一になると絵はほとんど禍々しいほどの美しさにまで洗練されてゆく。美し過ぎる絵は健全ではない。むしろ崩壊間際の頽廃を感じさせる。陶器も当初は乾山焼などの西の影響が強かったがじょじょに江戸好みの物に変わっていった。乾也が最も得意としたのは江戸の粋人が好む印籠や緒玉などだった。
江戸後期の文人たちの著作や交友は面白い。八百八町と広いが知識人の数が少なかったので文人たちは武士、町人を問わず密接に交流し影響を与え合っていた。その坩堝の中から真に江戸を代表する文化が生まれた。ただ南畝や詩佛、鵬斎や抱一は大物だがそれは江戸文化最良の上澄みだ。江戸文化の深みは鞠塢のような群小文人の事蹟を調べた方が把握しやすい面がある。決して歴史上の有名人を取り上げなかった森鷗外史伝のやり方ですな。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2024 / 08/ 26 24枚)
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