肩の辺まで天路をくだる烏蛇
夏垣に垂れる系図も蛇のまま
このエセーは今回出品された安井さんの墨書について、きままに書いてほしいと金魚屋編集部から依頼されたのだが、『安井浩司『俳句と書』展』公式図録兼書籍を眺めていると、どうしても軸に目がいってしまう。好みはあるだろうが、癖のある、実に力強い書である。それが大きな軸だと目立つ。インタビューで安井さんは、『刺激を受ければパッと変わるとか、すごい書家に接すればまた変わるとか、そういうことが、今はもうありません。安井浩司の書がもうできあがっていて、自分で言うのは変かもしれませんが、腰が据わっちゃった感じですね』と語っておられるが、そうだと思う。書に確信があるのだ。
北大路魯山人は、『書家が書いた書と、陶芸家が作った陶器ほどつまらんものはない』と言った。この言葉には轆轤が挽けなかった魯山人の韜晦が含まれているが、一面の真実ではある。実際、美術市場で高値が付く専門書家の作品は少ない。最近では井上有一と篠田桃紅さんくらいではなかろうか。人気があるのはたいていは文人の書である。理由はいろいろだが、簡単に言えば、専門書家の書は『上手い』という域を抜けないのである。芸術は微妙なもので、いくら技術的に上手くてもダメなのである。上手いという領域を通り超して、技術的には崩れた時に最高の芸術が生み出されたりする。井上有一の言葉を借りれば、『書家の堕落は、日展なんかに入選して書道塾を開くところから始まる』ということになろうか。人がお手本にするような書など書いていたのではダメなのである。
ただ書そのものについて書くと、最後のところ、じーっと見つめているとわかるよとしか言えなくなってしまう。絵を描けと言われると困る人は多いだろうが、書は少し練習すればごまかしがきく。それに数百万円で取引されようと、それは紙の上の炭素の染み(墨の跡)に過ぎないのだ。作業(労働)時間の長さが必ず作品の価格に反映されるわけでもない。だから書の素晴らしさを理解し、それを買って手元に置きたいとまで考える人間が出現するにはちょっとした奇跡が必要だ。どうやってもその機微は言葉では説明できない。そこで素人ではありますが、このエセーでは評釈じみたことを書かせていただいている。俳句の専門家の皆様には物足りないだろうけど、俳壇外の人間の読み方ということで、どうぞ見逃してやってください。
今回は出品墨書軸の中から『蛇』が詠まれた句を取り上げようと思う。『安井浩司『俳句と書』展』公式図録兼書籍掲載の評論で鶴山裕司さんが、『「蛇」は安井偏愛の言葉であり、それは神=形而上的極点と糞(厠)=形而下的極点の両極の間にある地上世界の表象だと読解できる』と書いておられる。言われてみれば確かにそうかもしれない。俳句は芭蕉の時代から、『俗世』に居直りながら『聖なる世界』を希求する芸術だが、安井作品ではそれがはっきり表現されているようだ。『天』と『地』とその間の『現世』という、世界認識の枠組み(フレーム)がある。
蛇よぎる戰(いくさ)にあれしわがまなこ 富澤赤黄男
(句集『天の狼』昭和十六年[一九四一年])
地の歓喜蛇横ぎればしずかなり 赤尾兜子
(句集『蛇』昭和三十四年[一九五九年])
『蛇』を邪念と残酷の象徴として、また混乱渦巻く現世の表象として最初に意識的に使ったのは富澤赤黄男ではないかと思う。赤黄男は実際に第二次世界大戦に従軍して辛酸を嘗めたが、戦争に疲れた、ではなく、身も心も『荒れた』人の目が捉えるのに『蛇』はいかにもふさわしい。言うまでもなくヨーロッパキリスト教世界では蛇はアダムとイブを楽園から失墜させた存在である。それは邪悪の象徴であると同時に誘惑と智慧の象徴でもある。また蛇による楽園追放もまた結局は神の意志である。だから蛇は未必の故意として神の意志を伝達する使者でもある。神の無意識が意識化された存在だからこそ、『蛇』の表象は魅力的なのである。
赤黄男は『天の狼』に続いて句集『蛇の笛』(昭和二十七年[一九五二年])を上梓している。しかし確か、この句集に収録された作品に『蛇』を詠み込んだ句はなかったと思う。『蛇の笛』という作品集自体が、智慧と邪念と聖なる意志を含む現世が奏でる響きということなのだろう。『蛇の笛』から七年後に、赤尾兜子がズバリ『蛇』というタイトルの句集を出版した。兜子の『地の歓喜蛇横ぎればしずかなり』で表現されている『蛇』の象徴的意味内容は、赤黄男とそれほど変わらない。ただ同じ『蛇』を詠んでも、それを『あれしわがまなこ』と受けるか、『しずかなり』で受けるのかに、赤黄男と兜子が生きた時代と二人の資質の違いがよく表れていると思う。
前衛俳句の作品史に沿って『蛇』という言葉(観念)の使われ方を追ってみたが、もちろん伝統俳句でも『蛇』を効果的に使った俳人はたくさんいる。ただ赤黄男的な『蛇』の系譜を正統に受け継いだ俳人は、やはり前衛俳句の系譜の中にしかいないと思う。安井浩司さんはしばしば遅れてやってきた前衛俳人だと言われる。しかしそれは安井さんが単にグズであり、前衛俳人が一人また一人と物故していく中で、消去法的に彼の存在が目立ってきたということを意味しない。安井さんが僕らの目に遅れて入ってきたのには理由がある。彼は前衛俳句を総括し、その先へと進もうとしている。それには時間がかかる。だから安井さんは遅れることになったのである。
『肩の辺まで天路をくだる烏蛇』で安井さんは、『烏蛇』(シマヘビの一種)を神的な『天路』から、人間の『肩の辺まで』下ってくる存在として描いている。また現世の人間の歴史そのものである『系図』を、いつまでも『蛇のまま』であると相対化している。赤黄男は『蛇の笛』を上梓したあと最後の句集になった『黙示』を書き始め、苦しげな吃音状態に陥っていった。兜子は『蛇』のあと『虚像』、『歳華集』、『玄玄』を出版し、やはりゆるやかな衰退へと向かっていった。安井作品に赤黄男や兜子のような観念的混乱はない。世界は明確に『天』と『地』とその間の『現世』という構造を持つ。確固たる世界認識の枠組み(フレーム)があるからこそ、安井さんは作品を量産できるのである。
作品解釈は人それぞれだと思う。作品は作家の感情や感覚を排した活字を読んで解釈するのが大前提である。しかし今回は墨書展である。安井さんが墨書という形で、他者に所蔵してもらうことを前提に、数千句のうちから選んだ句なのである。安井さんが茫漠とした意識で句を選んだとは思えない。選ばれた句には選ばれただけの理由がある。墨書をじっと見つめていれば、活字とは自ずと異なる句の解釈が思い浮かぶことだろう。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■