光陰矢の如しで月日の経つのは早いですね。一年はもちろん数十年でもあっという間です。そう考えると人間の人生は短い。短いけど長い。けっこういろんなことが起こりますから。
必要があって調べものをするときに一番「んん?」と考えてしまうのがネットや通信関係。小説などは過去の時空間を題材にすることが多いわけですが携帯電話はいつからあったっけと思ってWikiで調べることになる。「しもしも?」の大きな弁当箱のような携帯電話が発売されたのが1985年。5年ほどで今もまだ使っている人がいる手の平サイズの携帯電話になりましたがネットに繋がったのは2001年。スマホが登場したのは2007年です。
言うまでもなくスマホはもう単なる電話ではありません。通信デバイスの一つです。動画・音楽視聴はもちろんのこと金銭管理も行えます。ナビ機能も便利ですね。長電話が楽しかったのは大昔の話です。今はLINEなどでテキストのやり取りを頻繁に行いますが電話で話すのは苦手という人も増えている。スマホはパソコンやタブレットと同じ情報デバイスの一つです。
パソコン自体は基盤から組み立てる式の初期型を含めるとややこしくなりますが多くの人が利用し始めたワープロが日本で普及したのが1980年。ワープロ機能はすぐにパソコンに取って代わられますがピーゴロゴロのダイヤルアップ式インターネット接続が普及したのが1990年代です。
僕は90年代初めに情報関係の仕事をしていましたがまだ高速インターネットが珍しかった。通信費がえっらい高額だったんですね。アメリカのサーバにアクセスして情報を取ってそれを日本語版にローカライズする仕事だったのですが専門スタッフに初めてその手順を説明してもらった時にディスプレイの中のアメリカのサーバアイコンを見て思わず「おおっアメリカが見える!」と言ってしまった。笑い話ですがホント。夏目漱石が初めて電話を使った時に「幽霊の声のようだった」と書いていますがあまり変わりませんなぁ。
この情報革命は今後益々進むことはあっても後戻りすることは絶対にありません。通信速度はさらに速くなりデータ量も巨大化してゆくはずです。文学は実ビジネスの中では小さなパイですがそれでもこの情報革命の恩恵というか影響を受けます。
今国会図書館などが急ピッチで紙の本のデジタル化を進めています。よほど地球上の森林資源が枯渇しない限り紙の本の利便性は残るんじゃないかと僕は考えていますがデジタル化が進むのは確実。図書館から本を借りる時に紙だけではなくデジタル版でという時代が来るはずです。個人的には文学はもう明らかな斜陽産業なので武士は食わねど高楊枝はやめて音楽コンテンツなどと同じく図書館有料化を始めた方がいいんじゃないかと思ってますが。
それはともかく当然それは文学への取り組み方というか思考手順を変えます。今でもわからないことがあるとWikiでちゃちゃっと調べて分かったようなことを書いている人が大勢いますがそれが本格化する。昔のインテリにとって記憶力の良さは必須で今でも受験では最大の武器の一つですが実践の場では検索能力が物を言うようになる。
紙の本がデジタル化されれば検索が恐ろしく簡単になるわけでそれは知の組み替えを促すと思います。評論はもちろん創作の現場でもそう。リゾームが繋がり人間のオリジナリティ神話の多くが崩れることになる。もちろんそれでも新たな神話を人間は生み出すと思いますが。
俳句ではAI一茶くんが稼働中です。もちろん一茶くんの目的は良い俳句を詠むためではありません。AI研究です。人間の思考形態は複雑です。いっけん関連ないものを結び付けて成果を出したりする。言語を使って言語では表現されていない無意識を表現したりする。取合せの俳句はその代表的表現。そういった人間の思考をデータベース化して究極的にはAIに人間と同等の思考能力を持たせるための初歩的実験です。けっこうよく考えられた実験で一茶くんが詠んだ俳句を人間の俳人さんたちに読んでもらいその感想や読解をフィードバックしています。
俳句の世界では将来一茶くんのようなAIが人間の俳句創作者を越えるのでないかと言う人もいます。たまさか一茶くんが名句を詠むことはあるでしょうね。動画や音楽ではすでにAI制作コンテンツが商業化されたりファンがつく人気コンテンツになっていますから。量子コンピュータの登場も目前なので処理速度が速くなればさらにコンテンツの質が上がるはずです。
じゃあコンピュータの性能が上がってAIがさらに進化すれば人間は短歌俳句などの創作を行わなくなるかというとそうはならないでしょうね。AIにおびやかされ追い抜かれたとしても何事もなかったように相変わらず楽しく創作に励むのではないかと思います。AIモノと人間モノというラベリングが生じるかもしれませんが。
夢みたいなお話しをするとAIが進化して人間と同等の思考能力が可能になれば人間は有機体としての身体を失ってもサイバー空間で精神が生き続けるだけでなくそこで新たな思考を生み出せる可能性があります。不死の生命(知性)ですね。ほら吹き男爵が絶世の美女の人魚に恋をして求婚したんだけどセックスは魚と同じだと言われて恋が冷めたといった話は別として。いやそれもAIが解決してくれるかな。もとい。ただ十年二十年でそんな時代は来ない。現代のわたしたちはいずれ必ず死ぬ人間として創作に励み楽しむことになります。
花を詠みしあまたの歌に囲まるれ桜は明るき花にはあらず
声ならぬ声に歌ふか新緑の若葉夜明けの風にさゆらぐ
火とふ字を重ねて炎は生るるとぞこれより幾つ火をば重ねむ
何といふ暗さと思ふ一瞬を稲妻光り雷の鳴る
音のなく動く画面を見てをればわが死の後を見る思ひあり
来嶋靖生「月と影と」より
黄葉の銀杏となれば来て歩む亡き友垣と語らうために
よき人が身罷るこの世ひいらぎの花が小さく香れるこの世
禅寺丸柿の紅葉が散って枝先に冬立つということばが響く
あらたまの年の遠景は冬霞ゆく年来る年ゆく人来ぬ人
冠雪の富士に一礼して歩むこれからのことはこれからのこと
三枝昴之「これから」より
今月号は新春作品特集です。歌人は商業歌誌や結社誌などに歌を発表してそれを歌集にまとめます。歌集が最終成果なので雑誌で歌を読む時と歌集を読む時では自ずと読み手側の心構えが変わります。
雑誌で歌を読む時はテーマを設定した歌よりも作家個人の近詠の方が印象に残りますね。ああこの方は今こんなことを考えお暮らしになっているんだとわかる。俳句や自由詩ではそういう読み方はほとんどないわけでこれも短歌の富の一つです。
ゆうぐれに紐があったら引くだろう、わたしから連絡はしないから
平岡直子「暗殺」より
テーマ短歌とも作家近詠ともちがいますが平岡さんの一首には感心してしまった。抽象表現なのですが「ゆうぐれに紐があったら引くだろう」には実感というか現実に直結した手ざわりがありますね。
高嶋秋穂
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