「追悼と検証 村木道彦 ショート・ランナーの「永遠」」特集が組まれています。村木さんは昭和十七年(一九四二年)東京生まれで今年令和六年(二〇二四年)に八十二歲でお亡くなりになりました。歌集は昭和四十九年(一九七四年)三十二歲の時に刊行した『天唇』と平成二十年(二〇〇八年)六十六歲の時に出した『存在の夏』の二冊のみです。
村木さんの歌とお名前を有名にしたのは「ジュルナール律」です。深作光貞創刊ですが中井英夫が編集を担当しました。塚本邦雄や岡井隆や寺山修司らが執筆した伝説的歌誌(同人誌)です。第二号掲載の「緋の椅子」十首が村木の歌壇デビュー作となりました。
水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑
するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
秋いたるおもいさみしくみずにあらうくちびるの熱 口中の熱
ましろにはあらぬ繃帯 ひのくれを小指のかたちのままにころがる
めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子
村木道彦「緋の椅子」歌集『天唇』収録――初出「ジュルナール律」二月号(一九六五年二月号)より五首
デビュー作「緋の椅子」十首から五首です。「緋の椅子」は名歌として知られます。染野太朗さんは「わが唯一あこがれてゐる歌びとの村木道彦この春死んだ」という追悼歌を詠んでおられます。俵万智さんは「村木道彦の作品に出会ったとき私は、もうすっかり『ハマってしまった』」と書いた。特集で評論「村木春彦、自意識の書」を書いておられる加藤治郎さんは「かつて私は「『するだろう』たった五音が短歌史を変えた」と記した(『東海のうたびと』二〇一六年、中日新聞)。「するだろう」が短歌の口語化への分岐点となったのである」と評しておられます。村木さんは口語短歌の先駆者として評価されています。その通りでしょうね。
マフラーは風になび交うくび長き少女の縊死を誘うほどの赤
限りなくやさしきわれとなり行くを一つの生命奪うと決めて
死なしめて再び失うことなきを固き乳房の突起に触れる
苦しき眼の求むるは何 背後より首絞められてあかくつかのま
美しきものうつくしき真実を朱面に満してきわまらんとす
ようやくにぐったりとせる身体よりオーデコロンはかすかに匂う
おもいきり開いたままに閉じざる瞳永き眠りにつきておまえは
激情の去りたる後をこきざみになおもふるえてやまざる腕よ
わが裡の墓地に埋める 愛されし者よいのちを奪われるほど
廃園に来てやすらえりひとたびを朽ちてはさらに滅ぶものなく
うごくものわれのほかなく廃園はいまぞやさしくねよとさそう
(以上環18号「荒廃園」から)十一首
特集には中井英夫さんの著作権継承者で文筆家で写真家の本多正一さんも「せいねんのあとの夕暮――追悼村木道彦」を寄せておられます。冒頭で本多さんが中井さん所蔵の村木歌稿を紹介しておられます。「慶應義塾大学の四百字詰め原稿用紙三枚に万年筆で書かれている。性と死の混濁したこの二十三首が、どのような経緯で中井英夫のもとに残されていたのかはわからない」とあります。ただ「おそらく『ジュルナール律』新人選考のため、村木道彦が中井英夫との初対面ののち、自己紹介代わりに、それまでの自選作品を送ったものと推察される」とも書いておられる。
中井英夫が目利きであり角川短歌編集長として数々の優れた新人歌人を発掘紹介したことはよく知られています。中井さんは「「遠い潮騒――ジュルナール律」のこと」で村木短歌を絶賛してもいます。ただ中井さんは村木に「きみはショート・ランナーだ」と言った。寡作な作家で終わるだろうという予言ですね。実際そうなりました。『村木道彦歌集』の略歴にも中井さんの言葉が再録されています。
中井蔵村木歌稿から十一首を引用しましたが恋人とのセックスを詠んだ歌です。ただちょっと奇妙です。連作なのでしょうが最初の歌は「マフラーは風になび交うくび長き少女の縊死を誘うほどの赤」です。なぜ恋人の少女の「縊死」を望むのか。「美しきものうつくしき真実を朱面に満してきわまらんとす」はセックスのオーガズムと読めますが「きわまらんとす」のは作者なのか恋人なのか。またなぜ「真実」なのか。
セックスが終わった後の歌はさらに奇妙です。「わが裡の墓地に埋める 愛されし者よいのちを奪われるほど」と続く。愛し合う恋人たちのセックスは甘美な快楽のはずです。セックスは快楽を求めて同じことを繰り返す常同性でもあります。だからセックス描写は案外退屈です。しかし村木さんはそれを一度限りの営みと詠んでいる。生が死に移行するのがセックスであり行為の後には「廃園」が残るばかりです。
それは思想にかかわる何ごとかを声高に叫ぶ〝自我の書〟ではなくて、〝自意識の書〟とでも呼ぶしかないものだった。わたしのような生き方の認知を求める気持ちが働いて、思想なき故に自我は死んでいることになっている、わたし自身の存在証明をそこに込めたつもりだった。自意識の領域以外のどこにもわたしの居るべき場所はなかったのである。わたしは自意識そのものであって、常にわたしのなかの「人間」を相対化する。いささかの評価をいただいたとすれば、それは一種のもの珍しさだったのかもしれない。
村木道彦「わが裡なる『昭和』」(「三田文學」二〇〇三年夏季号)
村木さん自身による第一歌集『天唇』評です。塚本・岡井を中心とする前衛短歌時代には戦後社会批判が必須の要素でした。そんな歌壇状況の中で村木さんは「思想なき故に自我は死んでいることになっている」という認識を持っていた。持たざるを得なかった。ただ村木さんの「自意識」は別に前衛短歌=社会性短歌に反発するものではなかった。彼はただ単に「自意識の領域以外のどこにもわたしの居るべき場所はなかった」。それが抜き難い資質だったのでしょうね。
ひぐらしの声に充ちたるゆふぐれを現実の妻は髪洗ひをり
さうさうと風ふきわたれ 生きつ放し死につ放しのわれらの上を
石に、樹に、われがわれなる自意識に、陽は突き刺さる野面をゆけば
第二歌集『存在の夏』(二〇〇八年、ながらみ書房)より
二冊しか歌集を出しておられませんが特にブランクを感じさせる歌ではありません。第一歌集『天唇』の後に豊富な歌や歌集があって『存在の夏』になっているような気もしてきます。
歌人が歌を中断する理由は様々です。一つだけの理由でもないと思います。ただ村木さんの歌はスッと詠まれているようでいてどの歌にも細心の注意が払われています。それは三十四年ぶりに刊行した『存在の夏』でも変わりません。また歌題がほとんど重なっていない。一球入魂の詠み方です。引用した中井蔵村木歌稿「荒廃園」連作にしても恋人とのセックスを死に至る営みとして詠んでいる。歌題としては常同性のセックスも一度きりの試み。それも寡作の理由の一つでしょうね。
寡作であることは村木さんがご自身の自意識の砦を守ることを最重要としたことを示しています。乱暴なことを言えば短歌と歌壇に貢献しなければならないという意識はなかった。できなかった。それを貫徹したわけですから立派な歌人です。
また村木さんの歌が口語短歌の先駆であることはその修辞的特徴だけではありません。自我意識が自己顕示欲と社会貢献を含むとすれば村木さんの自意識の範囲は狭い。自己が見聞き体験して自意識に食い込む事象だけを歌にした。その意味で社会性を失った自意識短歌である口語短歌以降を先取りしています。
では多かれ少なかれ村木的自意識を表現の核に据えかつ歌を読み続ける歌人には何が求められるのか。自己顕示欲だけではすぐに限界が来ます。歌の伝統に貢献し短歌の未来を築く必要がありますね。
高嶋秋穂
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