結社誌「心の花」宮崎歌会主催の現代短歌シンポジウム「歌はどこから来て、どこへ向かうのか」での吉川宏志さんの講演「一九七〇年代短歌と〈今の歌〉」が再録されています。吉川さんは短歌研究誌で「1970年代短歌史」を連載中ですが短歌史としてはもちろん読み物としてもとても面白い講演録でした。詩史は歌人でも研究者でも書けますが歌人の場合は〈今〉に繋がる視点が不可欠です。吉川さんの講演はこの視点が貫かれています。
プラカード持ちしほてりを残す手に汝に伝えん受話器をつかむ
岸上大作『意思表示』一九六一
キシヲタオ・・・・・・しその後に来んもの思えば 夏曙のerectio penis
岡井隆『土地よ、痛みを負え』一九六一
革命來たることなし町は旱天にならべてさかさまに賣る箒
塚本邦雄『綠色研究』一九六五
吉川さんは「一九七〇年代に入る前に、一九六〇年代を少しだけ振り返っておきましょう」と前置きして「六〇年代安保闘争」時代に詠まれた歌を取り上げておられます。政治の季節の歌ですね。男の子の時代の歌でもあります。歌を生んだ歌人たちの強烈な観念が「夏曙のerectio penis」「旱天」と〝天〟に向けられています。岸上大作の「受話器」も遠いどこかに届きたい観念の気配があります。
鯖のごとくカブト光れり われ叛逆すゆえにわれあれ存在理由
福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』一九六九
そのあした女とありたり沸点を過ぎたる愛に〈佐世保〉が泛ぶ
岡井隆『天河庭園集』一九七二
掌ににじむ二月の椿 ためらはず告げむ他者の死こそわれの楯
塚本邦雄『星餐圓』一九七一
「学生運動の時代・三島の死」で引用された三首です。学生運動といえば福島泰樹さんですね。現在でも七〇年安保が福島さんの大きなテーマになっています。そして七〇年代はやはり塚本・岡井の時代。ただ「六〇年代安保闘争」時代と比べるとハッキリ時代の変化がわかります。岡井「沸点を過ぎた」と塚本「他者の死」にある通りです。六〇年安保時代には天に向かっていた強烈な観念が地上に留まりつつある。福島さんの歌もその多くが挫折と敗北を意識し先取りしたものでした。
詩人は予言者でも預言者でもありません。未来はわからず神から言葉を預かっているわけでもない。超人的能力は一切持っていません。しかし時代変化には敏感です。大きな社会変化への期待が消滅しようとしている時代には天上的観念と地上的俗事をマージした留保的作品が増えてゆきます。
サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん
佐佐木幸綱『群黎』一九七〇
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか
河野裕子『森のやうに獣のやうに』一九七二
砂浜は海よりはやく昏れゆけり 伝えんとして口ごもる愛
三枝浩樹『朝の歌』一九七五
*
見上げたる森の高さに月ありて悔しきこころ鬼も泣きしや
馬場あき子『飛花抄』一九七二
またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく
岡野弘彦『滄浪歌』一九七二
吐き捨つる種つややけき枇杷食めば夕やみの死者ら樹を揺さぶれり
前登志夫『霊異記』一九七二
広義の前衛短歌時代の作品ですが吉川さんは前三首を「若い世代の登場」の項目でまとめ後三首を「土俗論(岩田正)の流行」でくくっておられます。「若い世代の登場」でようやく日常詠が登場します。以前からあったわけですが修辞が違う。口語に近く文語体文脈の歌にあるような古語的言葉がありません。
「土俗論(岩田正)の流行」では吉川さんは「日本の古いムラ社会は、戦争を引き起こした原因だとして、戦後は厳しく糾弾されました。しかし敗戦から三十年の月日が経ち、徐々に再評価されるようになります」と書いておられます。卓見ですね。「土俗」は先祖返りではなく新たな発見だった。それゆえ歌も清新なものになった。
また河野裕子さん馬場あき子さんの女性歌人が登場しています。もちろん前衛短歌時代から活動なさっていたわけですが歌史の視点では吉川さんのまとめ方が正しいと思います。虚空に理想を描きその崩壊をドラマチックに歌った男性性短歌の時代を経てようやく女性性短歌が登場してきた。男性性と女性性は生物学的性差とは限らず三枝浩樹さんの歌も女性性ベクトルの方に振れています。
白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり
高野公彦『汽水の光』一九七六
縄とびの縄にあふるる波あまたおおなみこなみゆうやみふかし
玉井清弘『久露』一九七六
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ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて
生きがたき此の生のはてに桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり
岡井隆『鵞卵亭』一九七五
*
月光が録してくれむみどりごの声漏らしつつわが家睡る
伊藤一彦『月語抄』一九七七
逆さまに振られし壜の乳液が底に還らむと幾筋も垂る
志垣澄幸『空壜のある風景』一九七七
吉川さんが「新鋭歌人叢書」(一九七八年に角川書店から当時三十代の若手歌人の第一歌集を刊行した叢書全八冊)と「岡井隆の復活」「「南の会」の独自の動き」で例歌になさった二首ずつです。「南の会」は一九七六年に九州で発足した結社誌です。
それぞれ優れた歌人ですから秀歌・名歌があるわけですが総体的に見ると七〇年代半ばから後半は新たな短歌ムーブメントとしては停滞期にあったと言えます。前衛短歌の影響はもちろん土俗や日常詠が修辞的に洗練されていった時期だと言ってもいい。それを象徴するのが前衛短歌の一方の雄・岡井隆さんです。
塚本が我慢比べのように戦後思想をバックボーンとした重い歌に拘ったのに対しこの頃から岡井さんの歌は軽みを帯び始めます。「ホメロスを読まばや」にあるように短歌以外のジャンルへの興味も芽生えています。歌人の皆さんには大変申し訳ない言い方になりますが晩年に近づくにつれ岡井さんは出来の悪い吉本隆明のようなっていきますが吉本ほど画期的仕事を残せなかった。思想的ブレが最大の原因だと思います。しかし彼はカナリヤのような作家ですから時代変化に敏感で全歌を通読すれば彼一人で戦後短歌史になっています。
いちまいのガーゼのごとき風立ちてつつまれやすし傷待つ胸は
小池光『バルサの翼』一九七八
ゆふぐれに櫛をひろへりゆうぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ
永井陽子『なよたけ拾遺』一九七八
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
栗木京子 第二十一回角川短歌賞次席 一九七五初出
産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか
阿木津英 第二十二回短歌研究新人賞 一九七九初出
「八〇年代へ」でまとめられている歌四首です。口語短歌・ニューウェーブ短歌前夜の雰囲気が濃厚に伝わって来ます。女性歌人の歌が活き活きしてくるのもこの頃からです。
乱暴なことを言いますと男性作家は男性性と相性がよく女性歌人は女性性と相性がいい。男性性とは何かといえばこれも乱暴な言い方になりますが抽象観念です。同時代を一挙に同時把握しようとするかのような抽象観念です。社会が動揺していた戦後六〇年代七〇年代に男性作家が目立ったのはそれゆえです。
では女性性とは何かと言えば根源的生命力です。もちろん性別・男にもあるものですが女性の方にアドバンテージがある。また七〇年代後半から八〇年代にかけて女性作家の活躍が目立ってくるのは〝新しい表現〟が頭打ちになったからでもあります。
この時期自由詩の世界では伊藤比呂美さんらの女性詩の時代があり小説の時代では江國香織さんや川上弘美さんや井上荒野さんらの優れた作家が次々に登場してきます(俳句はほぼ万年変わりナシの凪状態ですが)。高度情報化社会を目前にして複雑化してゆく社会でもはや男たち(男性性ベクトル)では世界を把握できなくなったからです。男性性が思想的にも修辞的にも頭打ちになった情況で短歌や自由詩や小説が無意識的に活路を見出そうとしたのが女性性文学だったと言うことができます。
これは九〇年代まで続きます。上野千鶴子さん小倉千加子さん富岡多恵子さんによる『男流文学論』が出版されたのは一九九二年です。吉行淳之介や三島由紀夫を始めとする戦後作家を猛烈に批判した鼎談でした。ちょっと語弊がありますが男性性文学全盛の六〇年代七〇年代にそういった批判は不可能だったのではないかと思います。潮目が変わったことを強く印象付ける本でした。
短歌の世界では俵万智・穂村弘さんを両雄とする口語短歌・ニューウェーブ短歌の時代の到来が女性性ベクトル文学の本格的始まりでしょうね。穂村さんは性別男性ですが極めて女性性のベクトルの高い作風だと思います。出発点は母性的幼年幻想ですから。
吉川さんの「一九七〇年代短歌と〈今の歌〉」を読んでいると短歌が非常に時代に密接した表現であることがよくわかります。俳句は論外ですが時代を取り込んでいるとはいえ短歌のような生々しさは自由詩や小説にありません。吉川さんの「1970年代短歌史」の続きも楽しみです。
高嶋秋穂
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