萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第06回)をアップしましたぁ。「アブラハム=キルケゴール」(前編)で、いよいよこの評論の核心部分に入ってきました。旧約聖書創世記第二二章にアブラハムの試練があります。神がアブラハムに、一人息子イサクを生贄に捧げるよう命じたという試練です。アブラハムは粛々と神の命令に従います。イサクも抗うことがない。親子にほとんど会話はなく沈黙している。沈黙するしかない背理があります。
神は、端から私の思いを一切見透かしていることだろう。けれども私がここ、この「決断の瞬間」で稜線のいずれへ転(まろ)ぶか、それだけは知りえまい。神が私のふるまいにどう応えるかを、私は知りえないように。なぜなら、それはたとえ全知全能の神にとっても「死角」(山城)だからであり、それこそが人間に自由意志が与えられたことの意味、神と人間との間に交わされた契約の意味でなくてはならないからである。ここには絶対のたまさかがある。試練は神からも悪魔からも、私の外部の誰からも与えられたわけではない。ただ愛の本質が与えるのだ。西洋世界における愛の概念を確立させた一人、パウロが言うように神の本質が愛であるとしたら、愛の「おそれとおののき」はこのことにある。なぜなら愛はおよそ自らの外に根拠というものを持たず、その自己運動は神のように、愛する者と私とを絶対的な関係の下に置く、すなわち単独者にしてしまうからである。
萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』
萩野さんの『アブラハムの末裔』が優れているのは、非常に書きにくいですが、植松聖を全否定しているのではなく、ある種の共感を前提にしているからです。アブラハムは息子イサクを殺すことも殺さないこともできる。どちらになったとしても、そこには沈黙がある。その瞬間は、アブラハムにとっても生贄を命じた神にとっても沈黙に包まれている〝死角〟です。その時人は〝単独者〟になる。神は救ってくれない。孤であり個である人間存在そのものが試される。萩野さんにしか書けない肉体的思想でしょうね。
■萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第06回)縦書版■
■萩野篤人 連載評論『アブラハムの末裔』(第06回)横書版■
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